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刻の流狼第三部 刻の流狼編

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「はぁ……恒河沙が生まれる前か……」
 期待していた事を否定され、殆ど恒河沙に体を預けるまでに脱力する須臾に、ミルナリスが手を差し伸べる。
「でも、此処にお暮らしになっている方でしたら、私よりも詳しいかも知れませんわ。矢張り一度お聞きになられたら宜しいかと」
「うんそうする。……一応ありがとうと言っておくよ」
「無理はなさらない方がよろしくてよ」
 嫌われても何の障りもないとする彼女に、須臾は口元を引きつらせる。
 恒河沙の方は、二人の話には何の興味も無さそうに、それでも首を傾げながらミルナリスを見下ろしていた。
「お前、何歳だ?」
 気になるのは、彼女の口から二十年前という言葉が出来たこと。外見が自分よりも子供のくせに、偉そうな言葉遣いも気に入らない。
 もちろん恒河沙の頭には今までの会話が何を意味しているかなど、さっぱり入っていない。もっとも自分の親になど興味はなかった。
 そんな彼をミルナリスはさも可笑しそうに笑い、それが納まってから恒河沙の顔を見上げた。
「私は人では御座いませんの。精霊ですわ。ですから、外見には何の意味も持ち合わせておりませんのよ」
「だから、何歳だって聞いてるんだよ」
 ミルナリスの使う言葉は、遠回し過ぎて恒河沙の耳に届くはずもない。
「女性に向かって歳をお尋ねになられるのは、どうかと思いますわよ」
 ミルナリスの表情に変化は見られないが、口調は明らかに厳しくなっていた。
 だから恒河沙も向きになる。
「聞きたいから聞いてんだよ。俺は十七歳、そっちは!」
「言いたくありませんわ」
「俺は言ったんだから、そっちも言うのがほんとだろ!」
「ええそうですか! でしたら言わせて戴きますけど、あの竜族の方よりは、遙かに長く生きて居りますわ。それ以上は絶対に申しません! もう少し目上の言葉に敬意を払って戴きたいものですわねっ!」
 ハーパーを指差し、丁寧な中に棘を出すミルナリスに須臾は肩を震わす。
――い、意外と似ているかも。
 恒河沙と低い次元での言い争いになる所が、踊り子のミルナリスを思い出させた。
「何だ、婆よりも婆なんだ」
 流石にこの一言にはミルナリスも表情を変えた。
「なんですって! 精霊には年齢等は、関係ありませんわ! そんな事も知らないなんて、なんて、失礼で不躾なこましゃっくれたくそガキなんでしょ!」
「くそ婆!」
「脳足りん!」
「……クク…ク…アハハハハッ」
 二人の長く続きそうな口喧嘩を止めたのは、ソルティーの笑い声だ。
 まさか彼女まで恒河沙の次元に引き込まれるとは思っていなかったから、堪えきれずに吹き出してしまった。
 目頭を覆って笑うソルティーにミルナリスは頬を赤く染め、どうしてか熱くなってしまった自分を恥じ、恒河沙と須臾は呆然とその笑い声を聞いた。
「もう、そんなに笑わなくても宜しいのではなくて」
 少し頬を膨らませて、ソルティーに駆け寄ろうとするミルナリスの襟首を、恒河沙の手が掴む。
「離して戴けませんか」
 振り向いて自分を見上げるミルナリスを恒河沙は睨んだ。
「やだ」
「そうですか」
 どうしてと理由も聞かずにミルナリスはそこから姿を消し、ソルティーの膝の上に姿を現した。
 そして当たり前の如く彼にしなだれかかり、同情を求める。
「酷いと思いませんか、私の様に幼気な者にくそ婆なんて」
「それでくそガキ? そんな言葉を君が使うとは思っていなかったよ」
「あら嫌ですわ、私とした事が、そんな汚らしい言葉を口にしてしまったなんて」
 楽しそうな会話に誰も口を挟めず、恒河沙に凭れたままの須臾が一言呟く。
「マジで、幼児趣味だったとは……」
 見せ付けられる二人の様子は、なんとなく淫らな関係を思わせる。
 ソルティーの傍に居る時のミルナリスの顔は、完全に女の顔で、当て付けるの様にしか感じられなかった。
 誰に対するのかは、時折恒河沙に向けられる彼女に視線が語っている。
「……くそ婆」
 腹が立った。それも強烈に腹が立った。
 自分を挑発する様な視線を投げかけるミルナリスにも、自分に向けた事の無い顔をするソルティーにも、“自分の席”が占領されている事にも、覚えている限り最悪の腹立たしさだった。
「へ?」
 恒河沙がいきなり須臾の腕を払い除け、一直線に二人の元に歩いていく。
「あら? キャアッ!」
「これは俺の!」
 恒河沙はミルナリスの小さな体を持ち上げ、躊躇無く床に投げ捨てた。そして“これ”扱いした男の膝に跨って、首に力一杯抱き付いた。
 部屋に一瞬静けさが訪れたのは、恒河沙以外の頭が真っ白になったからだ。
「これは髪の先から爪先まで全部俺の!」
 もう一度恒河沙の宣言が部屋にこだまし、“これ”以外はなんとか自分を取り戻した。
 その中で最も早かったのは、床に投げ捨てられたミルナリスだった。
「…ホホ……ホホホホ…、殿方が殿方に言う言葉ではありませんわね」
 芝居じみた大袈裟な仕草でスカートを払いながら、彼女はゆっくりと立ち上がり、高笑いを交えた言葉を吐き出してみせる。
 離れた場所では、須臾もしっかりと頷いていた。
「そんなの関係ないだろ!」
「関係ありますわ。私、貴方の様な殿方がお出来になれない事を致しますから」
 勝ち誇るミルナリスの言葉に、須臾とハーパーの鋭い視線がソルティーに突き刺さった。
「なんだよ俺が出来ない事って」
「あらあら、そんな事もお知りになられずに、あんな言葉をお使いですか? クスクス…、子供染みた独占欲と言う訳ですか。その程度の方に、ソルティーは渡せませんわ」
「渡されなくても、元から俺のだ! それに、俺なんでもするもんっ!」
 更にソルティーの硬直が増した。
「クスクス…、それでは禁忌に触れると言うのですか?」
「知るかよそんなもんっ! 俺はソルティーになら何だって出来るんだからな! お前になんかソルティーは渡さない!」
 その時須臾が気絶して倒れたが、誰も気が付かなかった。
「お知りにならない事を、どうすればお出来になられるのかしら?」
「うう…それは……」
「ほらご覧なさい。私はソルティーが口に出さなくても、それが判りますわ。貴方にそれが判りますかしら?」
「……わか…る…もん……」
「あらそうですか。判りましたわ、もし、貴方がその事にお気付きになられたら、私も潔くこの身を退かせて戴きますわ。でも、もし貴方がそれにお気付きになられなければ、ソルティーは私が戴きます。それで宜しいかしら?」
「…う…うう…うううう…」
 半泣き状態で言葉の続かない恒河沙に、ミルナリスは勝利者の微笑みを見せる。
 納得出来ないと彼女の言葉を退けたいが、そうすると自分にはソルティーの事が判らないと認めた事になる。それだけは避けたいから、なんとしても彼女にそれを見せなくてはならない。
 その賭の商品になっている本人は、未だに心神喪失状態だった。
 こんな時に頼りになるはずのハーパーも、どちらに加勢する事も出来ずに言葉を失い続けていた。