刻の流狼第三部 刻の流狼編
此方は多分一睡もしていない。
一夜にして別人になった須臾は、窶れた頬と、目の下にこさえた隈と、虚ろな微笑みは、精神に異常を来した囚人に見えた。
「ど…どうしたんだよお前……」
「フフフフ……今の僕に近寄らない方が良いよ。今の僕は、すこーし、危ないから…」
忠告を受けなくても絶対に近付かない自信はある。
いつもの彼なら手入れを怠らない長い髪は乱れ、幾筋も顔に張り付けている。その何本かは口に銜えられており、元々非常に整っていて派手な顔が、壮絶に恐ろしい。
一応恒河沙に顔で問い掛けてみたものの、首を振られただけだった。
「はあ…まあ良いけどさ。早く飯食いにおいでよ」
ここはひとまず退散するかとミシャールは開けっ放しの扉に向かい、そこで何かを思い出した風に振り返る。
「そうだ、飯食ったら、あの兄ちゃんの部屋に集まってくれって」
「えっ! ほんとっ」
恒河沙が一直線にミシャールに迫り、その後ろでは須臾の表情に磨きが掛かった。
「ほんとだけど」
「ソルティー? ソルティーが言ったの?」
「あ、うん、そうだよ。……そうだ、伝言あった。ちゃんと飯を食えって」
「わかった!」
ぱっと元気になった恒河沙は、言い終わる前には廊下に駆け出していた。
彼の背中を見送り、此処に立ち寄る前に応接間に帰っていたソルティーに、昨日の状態を説明して置いて良かったと肩の荷を降ろす。
「あのさあ、あんたもさっさと行けば?」
遠巻きに須臾にも語りかけて、先刻よりも酷さを増した彼に、背筋に冷たいものを感じた。
「……フフ…そうだね、食事して体力付けないと、…フフフ……殺れないからね……」
口中での呟きはミシャールには届かなかったが、ふらふらと俯いて廊下を歩く須臾の後ろ姿には、並々ならぬ殺意が感じられた。
恒河沙対子供達の食事争奪戦が幕を下ろし、勝者恒河沙が動く屍の須臾を引きずって応接間に現れたのは、丁度ハーパー対ミルナリスの第四戦目が間もなく始まろうとしていた時だった。
部屋に満ち溢れた険悪な空気に一瞬怯んだが、意を決して二人はその部屋に入って、ソルティーの膝の上でくつろぐ少女の姿に呆然とした。
「自己紹介は自分でするか?」
「ええ、それが礼儀ですわ」
至近距離で互いの瞳を見つめ合う二人に、恒河沙の頭は真っ白になっていた。
ミルナリスは名残惜しそうにソルティーから離れ、立ち尽くしている二人の前まで来ると、先程ハーパーに見せた様に丁寧なお辞儀をし、真っ直ぐに恒河沙を見上げて微笑んだ。
「初めまして、私はミルナリスと申します」
「ミル…ナリス……」
忘れられない名前を聞かされ、二人の視線は、怪しく輝く彼女の金色の瞳に釘付けになる。
特に須臾はその名前の持つ意味に顔色を曇らせ、露骨に疑惑の眼差しを彼女に向けた。
「あら、矢張り同じ名前と言うのは、あからさまですわね」
口を手で隠して楽しそうに笑う彼女からは、僅かばかりの悪意を感じた。
二人は同時にソルティーへと視線を移したが、彼はハーパーの目の前でも平気に煙草に火を灯し、三人の方には顔を向けていない。一方のハーパーは、その様子を口惜しげに見つめてはいるが、言いたい言葉を懸命に押し殺している雰囲気が漂っていた。
その原因は、ミルナリスとの第二戦目で彼女に言い負かされた事が大きい。
『人の趣向に口を挟む権利が貴方に御座いまして? 体に害? 確かにそれは理由には成りますけど、この人にとっての害は、この人がしたい事を、頭ごなしに止めさせる事ではありませんか?』
そう捲し立てられてハーパーは言い返す事が出来なかった。
決してそのつもりはなく、過去の自分達の期待がソルティーに大きな傷となって残っていた。それに気付かされた今、何を口にしても枷になる様な気がしてならない。
ソルティーにしても、恒河沙の居る部屋で煙草を吸うのは、一つの意思表示だ。
「何か私に御質問でもお有りかしら?」
「ミルナリスって、まさか……あのミルナリスって訳じゃないよね……?」
ソルティーからまたミルナリスに視線を戻した須臾が、渋い面持ちでそう切り出し、彼女はそれに頷いた。
「いいえ、あれも私です。あれは仮初めの幻とでも申しましょうか。退屈凌ぎですわ」
「退屈…凌ぎ……」
須臾は彼女の言葉に怒りを露わにし、それをミルナリスは笑った。
必死に生きようとしていたミルナリスと、それを嘲笑する彼女が同一とは思えない。もし同一であっても、それを笑う事は許せない。
まるで人の一生が、彼女にしてみれば簡単に吹き飛ばされる塵に思え、そう思わせる彼女の微笑みは邪悪にさえ見えた。
「人の身に理解して貰えるとは思って居りませんわ。でも私は事実しか申せませんし、貴方達に無理に理解して欲しいとも思って居りません」
外見は別にして、確かにミルナリスは二人を見下していた。
初めから仲良くするつもりは毛頭なく、自分の造り出した幻の事にしても、態と誤解を招く言葉を使う。彼女が真実を知って欲しいのは、ソルティー以外にはないのだ。
「私の自己紹介は済みましたわね、では、お二人のお名前だけでもお聴かせ戴けないかしら?」
「………須臾」
一応ミルナリスが何者であっても、本心から嫌いであっても外見が女性なら声を荒げる事も出来ずに、須臾は渋々ながら言われた通り名前だけを言った。
いつもならこの後に続く筈の恒河沙の声は聞こえず、彼の方に視線を向けると、未だに彼の視線は此方を見ないソルティーに釘付けだった。
「……おい…、ったく、此奴は恒河沙」
肘でつついても反応しない恒河沙に代わって須臾が言う。
「恒河沙さん、珍しい瞳の色ですわね」
「!」
やっと反応した恒河沙は、敵意剥き出しに楽しそうなミルナリスを見下ろした。須臾が慌てて体を押さえなければ、平気で彼女を突き飛ばす位はしたかも知れない。
「今度そんな事口にしたらぶっ殺すぞ!」
歯止めが利かない恒河沙に怯む事なく、ミルナリスは更に口を開く。
「あらいけませんでした? 私、貴方と同じ瞳の方を存じて居りましたから、その方の御親戚か何かだと思いまして、一言お知らせするつもりでしたのに」
「えっ……」
驚いたのは恒河沙ではなく須臾だ。
須臾の反応にミルナリスは嬉しそうな笑みを見せ、
「アガシャと言う男性の方ですわ。この大陸では有名ではないかしら? 一度お聞きに成られれば宜しいのではなくて?」
「阿河沙……」
「誰だよそいつ?」
須臾が真剣になっているのに、恒河沙はそれをぶち壊す。
「お前の……父親だよ」
「はあ?」
脱力感に苛まれて吐き出す様に言葉を綴る須臾に、恒河沙は余りにも緊張感の欠片もない素っ頓狂な声を上げる。
その二人を前にして、ミルナリスは両手を叩き合わせる。
「まあ、道理で似たお名前だと思いましたわ。アガシャにコウガシャ、単純と言えば単純ですけど」
――悪かったな単純で。
当時まだまだ子供だった須臾にしてみれば、これ以上無いと思える程の名前を、一瞬で破壊された気分だ。
「で……何処で、いつ頃会ったの? 最近だったら嬉しいけど」
「いえ、ご期待には添えませんわ。私があの方と出会ったのは、二十年以上もの昔に、たった一度だけですから」
作品名:刻の流狼第三部 刻の流狼編 作家名:へぐい