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刻の流狼第三部 刻の流狼編

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「……な…内緒…だ」
 普通それは疑って下さいと言う事だろう。いや、聞きようによっては、しましたと言っている様なものだ。
 そして須臾には恒河沙の戸惑いが、恥じらいにしか見えなかった。
「…………………………………………………………………………ふぅ」
 とうとう悪夢に追いつかれて飲み込まれてしまった須臾は、涙を流しながら気を失ってソファーから落ちた。

――ソルティー・グルーナ、殺しちゃおっか。





 応接間でハーパーはまんじりともせずに一晩を明かした。
 荷物もローダーも置かれたままで、彼が帰ってくるとは信じていたが、あれだけの憔悴を見せられた後では心配するのは当たり前だろう。
 しかもどうしてか、いつもなら感じ取れる筈のソルティーの気配が一切伝わってこず、捜しようが無いのが現状だった。
 この二日間の出来事を考えれば、普段冷静なハーパーでも、心が落ち着く筈がない。
 その不安を背負ったハーパーの前にソルティーが戻ってきたのは、蒼陽と朱陽が丁度入れ替わる時だ。
 突然ハーパーの目の前に波紋が広がり、そこから姿を現したソルティーに驚き、彼の腕に抱かれた少女に更に驚いた。
「主……今まで何処に……」
 なんとか言葉にする事は出来たが、驚愕の為に体は思った様に動かない。
「何処? あれは何処だと言えば良い?」
「そうですわね、私の部屋とでも申しましょうか?」
 互いの顔を見合わせ、意味深な笑みを浮かばせる二人に、ハーパーは言葉が見当たらなかった。
 ソルティーに抱き抱えられ、当たり前の様に首に腕を回している少女に心当たりは皆無だが、彼女から伝わる力が彼女を普通の少女と思わせない。
「その幼子は一体……」
 子供では作る事の出来ない妖艶な微笑みを見せる彼女は、自分に向かって指を突き付けるハーパーに一度不快な顔を見せたが、またソルティーに微笑んで、床に降ろしてと頼んだ。
「お初にお目に掛かります。私、ミルナリスと申します」
「ミルナリス」
 上品にスカートを摘んでの自己紹介に、ハーパーは露骨な表情で疑念を浮かばせる。
 忘れる事の出来ない名前だ。
 それをミルナリスは察し、口元に手を当てると小さく笑う。
「まあ、私には人気があったのですね。あんな数日の出来事でしたのに」
 過去の楽しい一時を口にするミルナリスには、あの程度の事件は直ぐに風化しても構わない事なのだろう。
 彼女の勝手な言い分に、顔に潜ませた険を濃くするハーパーにソルティーが気付き、話しを逸らす為に口を挟んだが、それは更に彼を怒らす原因を造り出す。
「これから暫く、ミルナリスも旅に加わる」
「主?!」
「あら、ご心配なさらずとも、私は何もお邪魔は致しませんわ。ねえ、ソルティー?」
 先にソファーに腰掛けたソルティーに歩み寄り、その膝にミルナリスは腰を下ろす。
「そう願っているよ」
「そんな言い方は失礼ではなくて?」
 二人だけの睦言の様に、目の前で行われている事にハーパーは肩を震わした。
「主は一体何をお考えなのです。我は解せませぬ! その者が何者で在るのか、主には判っていらっしゃるのか」
 昨日まで確かに憔悴しきっていたソルティーが部屋から消え、やっと戻ったと思えば思いもよらない話。落ち着きを取り戻してはいるが、何時もとは全く違う雰囲気を纏っている。
 しかも連れてきた少女の異質さは、尋常ではなかった。
 ハーパーの感触では、ミルナリスの力は一昨日現れた男よりは劣る。しかし得体の知れない相手であるのは、あの男以上だ。
「主!」
 なんとか思い止まらせたいと願うハーパーに、ソルティーは一度だけ視線を投げかけ、
「大声を出さなくとも聞こえている。まだ誰も起きてはいないのだから、騒ぐな。それにミルナリスは連れていく事は、もう決めた話だ」
「しかし」
「心配しなくても対の者で敵に廻っているのは、グリューメ率いる地精だけだ。彼女は違う」
「では、如何様な者で在りますか」
 しつこく食い下がるハーパーにミルナリスは見下す視線を投げかけた。
「貴方にお答えする義務は御座いませんわ」
「何っ」
「私は竜族と言う者が好きではありませんの。人と同様に、私共精霊の力を借りなくては何もお出来になれないくせに、高見から人を見下して、有り余る知識とやらをひけらかされる割には、何もお知りにならない長生きだけが取り柄の種が」
「言わせておけばっ!」
 自分一人の侮辱ならまだ黙って絶えられたが、一族総てに対する言葉では、流石にハーパーも怒りに身を任せてしまう。
「ハーパー!」
 我を忘れて立ち上がったハーパーをソルティーは一言で制し、呆然とする彼に鋭い眼差しを送った。
「……申し訳、御座いませぬ」
 屈辱を噛み締め、自分を抑え込みながらそう口にはするが、心が込められた言葉ではない。
 ソルティーも彼の気持ちに気付き、肩を落として今度はミルナリスに視線を投げる。
「ミルナリスも、言い過ぎだ。口喧嘩をする為に此処に居る訳ではないだろ」
「御免なさい。少し調子に乗りすぎましたわね」
「二人ともふりでも良いから仲良くしてくれないか、これから先が思いやられる」
 まとわりつくミルナリスを避けて、額に手を置きながら呟くソルティーに、二人は一度だけ目を合わせて首を横に振った。
「幾ら主の御言葉でも、それだけは我には不可能」
「私もですわ。何の契約も無しに、精霊の力を引き出す恩知らずとは、口も聞きたくありません」
 修正の出来そうにない二人の即答は、天井を仰いで聞き流された。
 言い聞かせる努力をするだけ無駄なのは、二人の間に飛んでいる見えない火花でよく分かる。
 かといってミルナリスを帰す事は避けたい。
 こうしてソルティーがハーパーの前に帰られたのは、彼女が居るからだ。彼女が居なければ、ハーパーの言う事だけを聞き入れてしまいそうになる自分を、彼女を利用する事で避けたかった。
 それだけの強さを持つミルナリスを傍に置く事で、寧ろハーパーよりも避けたい恒河沙達と向き合える“開き直り”を手にしたかった。
 ミルナリスもそれを充分理解して、ソルティーよりも前に出る。
 ハーパーには決して理解出来ない弱さを抱えるが故に。
「さて、他の方々とは何時お逢いできるのかしら?」
「そうだな、朝食後に集まって貰う」
「楽しみですわ。ほんと、楽しみ」
 喉を鳴らす笑い声を出し、嬉しそうに目を細める。
 ミルナリスがソルティーの傍に居たいと言ったのは、彼女の本心からなのには間違いない。
 しかし、役目は別にある。それは当然ソルティーには語られていなかった。



 朝食の時間を知らせる鐘が、屋敷に鳴り響く。
 相変わらずその役目はミシャールがしている。
「おーい、起きてるか? 朝飯だぞ」
 ノックも無しに居間の扉を開けて、わざわざ中の様子を確かめたのは、恒河沙の状態を確かめたかったからだ。
「や、起きてたのか」
「あ…うん、おはよ」
「おはようさん!」
 元気は戻っていなかったが、それでも夜を明かした風ではないし、両手の怪我も治療はされている。まずは大丈夫だろうと、恒河沙に満足げな笑みを見せた。
 しかしその直ぐ後で、昨日の恒河沙に勝るとも劣らない須臾の鬱鬱状態に、思わず口元が引きつった。