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刻の流狼第三部 刻の流狼編

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 須臾は恒河沙の髪から傷付いた手へと自分の手の場所を変え、酷く傷付いている方に右手を両手で包み込み、悔しさを滲ませる様に呟いた。
 普段は明るく外へと発散させる恒河沙だったが、ある一定の線を越えると自分自身への攻撃に変わる事が何度かあった。訳の判らない事、言葉で言い表せない何かへの苛立ちが、こうした傷を作っていた。
 それでも随分と無くなっていた筈だった。記憶が戻らない事も、姿が人とは違う事も、それはそれで自分だと言いきる強さが出来たと思っていた。
「何があったんだ?」
 原因などもう聞かなくても須臾の心には浮かんでいたが、いつもの様に優しく問いかけ続ける。
「……須臾……」
「ん?」
 まだ俯いたままだが、取り敢えず恒河沙が声を出してくれた事にほっとして、次に彼が話すのを待った。
「……俺をあげるってどうすれば良いんだ?」
「はい?」
 思いもよらなかった恒河沙の言葉に、頭が真っ白になって、瞳孔が一瞬開きかけた。そして無意識に聞き返してしまった事を、一瞬後に後悔する。
「だから、ソルティーに俺をあげるんだ」
 出来れば聞き違えであって欲しいと、須臾は自分の耳に祈りを捧げる。
 しかし須臾のそんな祈りも虚しく、固まった須臾に向かって恒河沙は頭を上げ、真っ直ぐに蒼白になっていく顔を見つめて、今度は大きめの声で言った。
「ソルティーに、俺を全部あげたいんだけど、どうすればいいのかわかんないんだ」
 一瞬、本当に、本気で、須臾は意識が別世界へと連れ去られるのを感じた。
――おいっ、一寸待て、一寸待て、一寸待て、一寸待て。
「ちょぉぉぉぉっとっっ待ぁてぇぇぇぇぇええええっっ!!!」
 卒倒直前の須臾の叫びに、恒河沙は素直に頷いて待った。
 ただし錯乱に到達した須臾の思考は直ぐには正常にならず、その間の雄叫びなのか悲鳴なのかも、恒河沙には何を言っているのかさっぱり判らない。
 それでも恒河沙はただ黙って須臾が息を整えるのを待ち続け、随分と待たされてから漸くまともな話が聞こえてきた。
「お…おお…おまお前…、お前っ、自分が何言ってるか判ってんの?! ああっ! もしかして熱でもあるとか! 何か変な物口にしたとか! 何処かで頭思いっきり打ったとか! 夜中に妖精が耳元で話をしたとかぁ!」
「ぜんぜんない」
「あーーーーーーるーーーーーーー!!! お前忘れてるだけだから、絶対に何かあったんだ! だからそんな恐ろしい事口にするんだぁぁぁぁぁっっ!!」
 絶叫と共に立ち上がって、髪の毛を振り乱して半狂乱になる須臾を前にしても、恒河沙の考えは変わらない。
 ミシャールの言った事を、ずっと自分なりに考え続けたのだ。
「だって姉ちゃんがそうした方が良いって言ったんだ。俺、他にソルティーに許して貰う方法見付かんないから、姉ちゃんが言ったみたいに俺をあげたいんだけど、どうしていいのかわかんないんだ」
「お前は許して貰う為に体売るのかぁぁぁっ!?! 僕はそんな事お前にさせる為にお前を育ててな…………………………はい?」
「売ったら意味ないだろ。ただであげるんだ。ソルティーに本気で謝りたいなら、俺の人生全部あげるのが一番なんだって。でも人生全部ってよくわかんないし、あげんのいいけど、どうやってあげればいいのかわかんないし……」
「……人生……?」
 生きる気力の大半を使い果たしてしまった様な半分放心状態の須臾に、恒河沙は殊更素直にコクンと首を下げた。
「……ア…アハハ…人生ね……」
 乾いた笑いと、引きつった笑みを浮かべて、須臾は床に倒れた。
 力の入らない体を両腕でなんとか支えた後は、急上昇と急降下を満喫した頭を振る。
「はあ…良かった…。そうだよ、まだ子供のお前がんな事言う筈ないもんね、ああ良かった、体じゃなくて人生をあげ……………って、良くないっ!!」
 思わず納得しかけた自分に気付き、目を見開いて恒河沙に詰め寄った。
「どうしてお前の人生を彼奴にあげなきゃなんないの! 人生なんてそんなに簡単にあげたり貰ったり出来ないんだよ?!」
「でも姉ちゃんがそう言ったんだ」
「それって、ミシャールの事だよね?」
「うん、その姉ちゃんが、心の傷は塞がらないから、俺全部使えって」
「だからどうしてそうなるのぉ」
 恒河沙と話していると、一向に話が先に進まないのを感じて溜息が出る。
 取り敢えずは恒河沙の言っている『あげる』が、須臾の想像してしまった事と違うのは安心したが、どうもそう安心するにはまだ早い。
 恒河沙が必死になればなるほど、彼の思考回路は単純化して、須臾の言葉は通じなくなるのだ。
――平常心平常心平常心平常心、冷静になるんだ須臾!
 自分自身に言い聞かせ、序でに大きく深呼吸して、努めて冷静な自分を作り出し、最後に両手で自分の頬を張って渇を入れた。
 人生最大の修羅場がこれから始まる。まさしくそんな緊張感で須臾は声を吐き出した。
「恒河沙良い? 初めから話して。何があったのか、全部、細かく、思い出せるだけ思い出して、僕に聞かせて」
 須臾の引きつった顔にはまだ冷静さは出ていないが、それでも恒河沙は一度頷いてから少し長めの説明を始めるのだった。



 恒河沙の話は途中何度か声を詰まらせる場面もあったが、半分ほど話が進んだ時には、須臾も大体の事情を飲み込めた。
――成る程、それで人生あげちゃう計画ね……。
 須臾は気持ちを入れ替える為に部屋に明かりを灯し、自分の鞄の中から包帯と薬草等を取り出した。
 恒河沙の傷の手当てをしながら考える事は、如何にして彼の考えを改めさせるかだった。
――どうしてソルティーなんだよ。
 確かに気にならない存在でないのは頷ける。外見からも女なら心が揺れても仕方がない。だが恒河沙は男で、育てる時にも意識してきた。それに同性相手に恋愛感情を抱く事が、どうしても須臾には考えられない事でもある。
 勿論、恒河沙がソルティーをそんな風に想っていると断定は出来ないし、考えたくもない。だが確実に恒河沙の中を彼が占める割合は大きくなり、その結果がこうして傷にまでなって現れてしまった。
 しかもその理由が、須臾からすれば実に下らない理由だ。
 なんて事はない、ただ単純にソルティーに嫌われたくないだけ。たったそれだけで、こんなにも苦しんでいる。とても普通の感情には留められないだろう。
 このままでは一度思い込んだら止まらない恒河沙なら、本当にソルティーに向かって『あげる』と言っても可笑しくはない。
 それはいろんな意味で恐い。
 第一、ミシャールが恒河沙に言おうとした事と、恒河沙の受け取った事は、余りにも懸け離れているのに、本人がそれに全く気が付いていないのが問題だ。
 彼女が言いたかったのは、誠意を見せ続けろと言う事だろう。なのに恒河沙が考えているのは、まるで物を受け渡しするかの様な『全部をあげる』事。
――ソルティーは嬉しいかも知れないけど、僕は嬉しくない。
 忌々しい男の顔を振り払い、なんとか落ち着かせてソファーに座らせた恒河沙の隣に腰掛け、一息吐いてから説得を開始した。
「あのさ、ソルティーを傷付けたの、別にお前だけじゃないだろ? あの時、僕もお前と同じで、ソルティーの事を僕も変な目で見た」