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刻の流狼第三部 刻の流狼編

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「そう言えば、あたしあんたにも酷い事言ったね。人生賭けなきゃなんない人が二人もいると大変だ」
「いい、気にしてない」
 覚えていないと言わない辺りが、気にしていると言っている様なものだ。
 しかしそれが見えない彼の優しさなのだと思うと、ミシャールは訳もなく泣きたくなった。
「あたし我が儘なのかな……。お兄ちゃんを選んだのに、あんたが居ないのも嫌なんだ」
「仕方ない。俺、シャリノ居なければミシャールと会えなかった。だから、それは仕方ない。でも、俺はミシャールから離れない。ずっと居る」
「……ありがとう。あんたが傍に居るだけで、どんなに助かった判らない」
「その言葉で充分だ」
 気持ちを込める事が出来ない代わりに、ベリザはしっかりとミシャールを抱き締めた。
 言葉では伝えられないのなら、行動で示すしかない。
 それがベリザの心の伝え方だった。





 これと言った家具も調度品もない部屋が、ソルティーを連れてミルナリスが移した場所だった。
 室内は明るいが、壁の何処にも窓はなく灯りらしい物も無い。
 そして、入り口となる扉も、その部屋にはなかった。
 在るのは二人が横になるだけのベッドが一つだけ。
「……本当なら、此処に永久に閉じ込めてしまいたい……」
「出来るならそうしてくれ」
 ミルナリスに用意された煙草を燻らせながら、胸に頭を置く彼女にそう要望する。
「……出来る事なら……しています。誰にも渡したくない」
 目の前にあるソルティーの首飾りを握り締め、唇を噛み締める。
 出来ない事を口にする者と、出来ないと判っていてそれを頼む者。どちらの言葉に多くの皮肉が込められているのだろうか。
「もっと以前に貴方と出会えていたなら、こんな想いにはならなかったのに……」
 ほどいた長い黒髪をシーツの上に撒き散らせ、空いた片手で彼の胸に爪跡を残す。
「貴方をこんな身にはさせなかったのに」
「そうだな、アスタートにでも産まれていれば、君とも出会えていたのかも知れないな」
 その言葉にミルナリスはソルティーの上で体を起こし、彼の顔を微かな驚きで覗き込んだ。
 言葉にならない問い掛けにが暫く続き、結局言葉は出なかったが、うっすらと悲しい笑みを浮かべてもう一度彼の胸に頬を寄せる。
 やっと手に入れた一時を、無粋な言葉で台無しにはしたくなかった。
 たとえこの行為にソルティーが何の意味も持っていなくても、彼の心の揺れに付け入るしか彼女には方法が無かった。
「私も、一緒に行きたい」
 心からそう思った言葉にソルティーは何も言わなかった。
「貴方が消えるまで、少しでも傍に居たい」
 ソルティーの首筋に唇を這わせ、耳元で言葉を吐く。
 彼女の息を感じながら、ソルティーは銜えていた煙草を掌に握り締め、溜息混じりの言葉を出した。
「……干渉は出来ない筈だ」
「それでも、傍に居たい。力をお貸しする事は出来ません、けれど、貴方の理解者になる事は出来ます」
 首筋から胸へと小さな鬱血の跡を残しながら、ミルナリスは彼が首を縦に振るまで言い続ける。
「私は嫌。愛した貴方が、私の知らない所で消えるのは、絶対に嫌。それが出来ないのでしたら、今直ぐ私がこの手で貴方を殺したい」
「ミルナリス……」
 鈍く光を放つ彼女の瞳を見つめ、滲み出てきた涙にソルティーの指が触れる。
「また利用しろと言うのか? こんな傷の舐め合いを、またするかも知れないのに、それでも――」
「前にも言いましたわ、私は一途ですと。問題ですのは私自身。貴方を愛している私が、愛している貴方に何をしたいのか。本当に最後までお供できるのかは、今の私には判りません。でも、ほんの少しの時間でも、貴方の傍に居たいのが、私の正直な気持ちです」
 頬に宛われたソルティーの手を握り、その掌に口付けをする。
 ソルティーはその様子に目を細め、
「多分、いや、絶対に君の気持ちには応えられない。それでも良いのか?」
 そうする事が出来たのなら、と思いながらの言葉に、ミルナリスは微笑んで頷いた。
「何の決意も無しに、軽はずみな言葉を使ったりしません。貴方の大事な人を、憎む事もしないわ。ただ傍に居たい、たったそれだけです」
 儚い望みを懸命に口にする彼女をソルティーは自分の胸に抱き寄せ、癖のない黒髪に唇を当てた。
「本当に君とはもっと違う形で会いたかった。これだけは本当だ……」
「ええ、信じます。だから……だから、今は嘘を言って……」
 ミルナリスは重い言葉をソルティーに伝え、彼からもたらされる言葉を噛み締める。
 音になった言葉が、虚になるも、実になるも、それは受け取る側に委ねられる。
 だからミルナリスはソルティーの言葉を、心の中で自分の都合の良い言葉に変えていった。
 絶対に、叶わないと思いながら。





 須臾がシャリノとの話に、一応の区切りをつけてから居間に戻ったのは、夕食の時間もとうに過ぎてからだった。
 シャリノとはオレアディスの話が終わってからも、彼の話を面白可笑しく聞かされ、話に花が咲いた。気が付けば、明かり取りの窓が何の意味もない様になり、絶えなかった笑い声を出しながら元の部屋に戻ったのだ。
 しかし本当の所は、何も無かった様に恒河沙の顔を見られるのかが心配で、近かった筈の居間が遠く思えて仕方ない。
 ある程度の事は前々から予想していた。
 オレアディスの事も、イェツリが亡くなってから暫くして現れた、彼女本人から聞かされた。詳しい事は教えられていなかったが、今回のシャリノの話から、今まで自分が疑問に思っていた事は解消された。
「……はぁ〜」
 居間の扉を前にして、滅入りまくる。
 疑問が解消されたからと言って、問題が解決はしない。
 いつも須臾が思うのは、「せめてこのままで」だけだ。一人で抱えるのには辛い悩みだったが、シャリノに話が出来て少しは楽になった。でも、「これからどうするんだ」が、頭の中でぐるぐる回る。
「しゃーない、平常心平常心」
 両手で軽く自分の頬を叩いて、直ぐに急降下しそうな気分を切り替え、いつも通りに扉を開けた。
「うっ……」
 須臾は咄嗟に、開けた扉をもう一度閉めようかと本気で考えた。
 部屋に漂っている雰囲気が、自分が部屋を後にした時よりも、数倍暗かったからだ。
「……恒河沙?」
 そして自分に背を向けて床に座っている相棒が、矢張り部屋を後にした時よりも、数十倍落ち込んでいるのが見えた。
――あちゃー、僕が居ない間に、またなんかあったんだ……。
 しかも今回はいつもよりも激しく気落ちしている。
 何があったのかは判らなくても、誰の所為かは充分判る。腹の立つ事ではあるが、恒河沙を此処まで落ち込ませられるのは、自分でも無理だ。
「…恒河沙、どうしたんだい?」
 昼間にはミシャールがした様に、須臾は恒河沙の前に陣取り、膝の上に置かれた彼の頭に手を置いた。
「どうしたの? ……って、お前どうしたんだよこの怪我」
 膝を抱えた恒河沙の両手は、血が固まったままの状態だった。一応血は止まっているものの、割れた爪が痛々しさを感じさせ、よく見れば大剣の上にはやはり血に染まったシャツの様な物が置かれている。
「お前……“また”自分で……」