刻の流狼第三部 刻の流狼編
ミシャールのその真摯な態度に、恒河沙は何度も口を開き掛けては閉じるを繰り返し、漸く言葉らしい言葉を吐きだした。
「…俺…、ソルティーの事、ソルティーが一番嫌がってた事……」
「しちゃったの?」
ミシャールに恒河沙は頷いた。
「謝って許して貰えない様な事?」
もう一度頷く。
「俺、ずっとソルティーの事好きだって言ってたのに、大事にするって、護るって言ってたのに、なのに俺、ソルティーが一番隠したかった事見て、変な目でソルティーの事見たんだ。ソルティーは、俺の目とか、髪とか見ても、一度もそんな事しなかったのに、俺のこと大事だって言ってくれたのに、俺……、俺……あの時一歩も動けなかった」
それが自分の気持ちと、ソルティーの気持ちの差の様な気がしてならない。
どんなに絶対にと言っても、結局はこの程度の気持ちでしか思っていなかったのだと、自分に向かって唾を吐くしかなかった。
「これで、俺は二回もソルティーの事、傷付けた。前にも酷い事言った俺を許してくれたのに、また俺は……もっと酷い事したんだ…」
自分がどれだけ彼に期待を持たせる言葉を吐いていたのか、全部覚えている。
約束も交わしたのに、自分にも誓ったのに、自分を見て怯える位に彼を傷付けた。
「許して貰えない、絶対に許して貰えない。……もし俺がソルティーだったら、絶対に俺の事許せない事、俺はしたんだ」
浮かべる表情は今にも死にそうなのに、溜まった感情の捌け口になる筈の涙が流れないのは、それだけ心が傷付いている証拠だろう。
大抵それを本人は気付かずに、手だて無く更に傷を深くしてしまう。
彼に同情する気はさらさらないが、多分初めて此処まで傷付いた彼の背中を押す位ならと、ミシャールは思った事をそのまま言葉にする。
「それでもさあ、傍に居たいなら、謝るしか無いと思うよ」
「許して貰えない」
「うん。多分やってしまった事は消えない。消しようが無いじゃん、過去だもん」
そう言ってミシャールは暫く天上を見上げ、大きく息を吐き出し、もう一度恒河沙に向かった。
「あたしもさぁ、ガキの頃お兄ちゃんに酷い事言った事がある。どうして他の人みたいに大きくならないのかって、本当にあたしのお兄ちゃんなのかって、気味が悪いとも言っちゃった。あたしはその時のお兄ちゃんの顔が、今でも忘れられない。今にも死にそうな顔をされてさ、お兄ちゃんを殺しかねない言葉を言っちゃったんだって、そう思った」
その時の事を思い出すのか、ミシャールは苦しそうな顔をして、浮かんできた涙を指で拭う。
「言っちゃった言葉は消せない。どんなに頑張っても、お兄ちゃんを傷付けた事実はあたしの中に在り続ける。でも、それで逃げ出したら、言った言葉がずっと、あたしが死ぬまで事実として残っちゃうと思って、言葉を重ねた」
「……言葉を重ねる?」
「今度はお兄ちゃん大好きって、言葉を重ねた。一度開いた心の傷は無くならないから、その傷が隠れる位の大好きを重ねた」
自分の胸を両手で押さえたのは、恒河沙の前では泣かない様に踏み止まる為。
泣いてどうなる問題で無いのなら、泣かずに前を見るしかないのがミシャールの生き方だ。
「でも俺は、二回目なんだ。一度隠れた傷を、また……」
恒河沙は俯いて唇を噛み締め、これ以上はどうにもならないと呟き、ミシャールはそんな弱音は許さなかった。
「じゃああの兄ちゃんと離れても良い訳? このままあんたがした事、本当にしても良いと思ってる訳?」
無理矢理恒河沙の顔を両手で挟み、自分の方に向かせる。
「あたしはまだお兄ちゃんの傷が塞がったなんて思ってない。あたしはあたしの一生を使って、お兄ちゃんの傷をあたし自身で癒し続けるつもりなんだ。あんたは人一人、殺しかねない事をしたんだろ? だからそれだけ後悔して居るんだろ? だったら、あんたの一生を全部使っても、それを償わなきゃなんないんじゃないの? それって近くに居なきゃ、絶対に出来ない事だよ」
「でも……」
「相手が死ぬ思いしたんなら、あんたも死ぬ思いして相手の傷を癒す言葉を言い続けなきゃ、あんたの気持ちなんか絶対に伝わらない。誰も見てない所で傷を作ったって、気付かれなきゃ何の意味もないんだ。あんたが今作った傷を癒せるのは、あんたじゃないんだからね」
「だけど……それでまた……」
「そんなの、それこそ今に関係ない。信じて貰えないかも知れない、ずっと塞がらないかも知れない、でも、何もしないで逃げ出すより、何十倍も意義があるとあたしは思う」
何も言わなくても通じるとは思っていない。
もし通じたと思っても、本当に通じたかどうかを知るのは、矢張り言葉にしてからだ。人の態度など、演技をすれば隠されてしまう。だから一度でも傷付けたのなら、その言葉がもう二度と出ない様にして、そして言い続けるしかない。信じて欲しい言葉を。
「あんたの人生で本当に大事な人ならさ、あんたの人生全部あげなよ。他に方法見付からないなら、命賭けてもう一回、謝るんじゃなくて、好きだって言う気持ちを、思いっきり出してみれば?」
「俺の人生全部……」
「失いたくないならさ、そうするのも一つの手だと思うよ。それくらいしか、あたしには言えない。結局どうするのか決めるのあんただもん、あんたとあの兄ちゃんの問題だから、結果は誰にも分からない」
ミシャールはゆっくりと首を横に振り、あくまでも関係のない者としての言葉を纏めた。
人の心の傷は決して他人には見えない。
少なくともこの事で、恒河沙自身も大きな傷を作った。
だから、彼等の傷を知る事の出来るのは、矢張り彼等だけしか居ないと思う。無関係の者の言葉は、どう取り繕っても無関係の言葉でしか無いのだ。
「俺の人生…」
ミシャールの言葉が正しいのかどうかは、恒河沙には判断できない。でも、彼女の言う通り、逃げ出しても同じ結果が待っているなら、少しでもソルティーの近くに居たかった。
「こういう事に今直ぐ出る結果は無いよ。だからゆっくり考えたら良いよ。他にいい方法が見付かったら、そうすれば良いんだからさ」
言い聞かせる様に恒河沙に言うと、ミシャールは気合いを入れて立ち上がった。
「んじゃ、あたし戻るわ。怪我の始末は自分でしな、あたしは忙しいんだ。――だけど、また何かあったら言いなよ。力を貸すのは無理だけど、話を聞いてやる事は出来るからさ」
「……ん、ありがと……」
直ぐには元気が戻らないと判っているから、敢えて何も言わずにその恒河沙らしくない言葉を受け取った。
「飯、食いたくなったら言いなよ、今日だけは何時でも作ってやるから」
そう言い残してミシャールは部屋を出た。
廊下に出てやっと溜めていた息を吐き出し、いつの間にか張りつめていた力を抜いた。
「良い事も悪い事も、色々在るのが人生ってやつだよね?」
そうミシャールが問い掛けた先には、壁に凭れて彼女を待っていたベリザが居た。
偶然なのか、それとも心配してなのか、何時も通り感情の見えない彼相手では、どんな顔を浮かべて良いのか判らない。だから彼女は彼の胸に額を押し当て、悲しい気持ちを浮かべてしまいそうな顔を隠した。
作品名:刻の流狼第三部 刻の流狼編 作家名:へぐい