刻の流狼第三部 刻の流狼編
自分を怯えた目で見つめたソルティーが、どうしても忘れられない。どれだけ元の自分が大好きな顔にすり替えようとしても、その眼差しは消えてくれなかった。
子供達の中でも年長者の女の子達と、食事を作るのがミシャールの役目だった。
本当はこんな事は大嫌いで苦手なのだが、シャリノの命令には逆らえない。もっとも慣れが先行して、今では苦もなく出来てはいるが。
「んじゃあ、あたしはみんなを食堂に集めるから、盛りつけは任せたよ」
「はーい」
これだけの大所帯だ、日々の食事を作るのも大変な上に、昨日から食い扶持が増えている。しかし、女の子達は今の状態を結構喜んで、ソルティー達の誰が良いかを口にしながら食事の支度に勤しんでいた。
ミシャールはテーブルに置いていた小さな鐘を手に取ると、それを鳴らしながら屋敷中を歩き回る。
元気だけが取り柄の子供が、何処にいるのか一々捜していたら食事の時間などとっくに過ぎてしまうからだ。
「おーい、みんな飯だよーー。早く行かないと、全部無くなっちゃうぞーー」
呼びかけながら鐘を鳴らすと、一斉に子供達がいろんな場所から出てきて、走って食堂へと競争を始めた。
「走ると転ぶぞ」
何時も言い聞かせてはいるのだが、誰もその言葉を聞きはしない。
そうしてミシャールは屋敷を一回りしてから食堂へ戻ると、集合状況に首を傾げる。
「なんだよ、彼奴等来てないのか?」
子供は全員揃っていたが、ソルティー達は誰一人として来ていない。
場所が場所だけに近くに宿や食事が出来る店はない事や、時間になっても来なければ、子供達に食べられてしまう事も説明していたと言うのにだ。
「ったく世話が焼ける。エリナ、あたし客を呼んでくるから、みんなには食べさせて置いて。ちゃんとあたし達の分は残して置いてよ」
「はーい、一応努力はするね」
その結果の見える返事にミシャールは肩を落として、それでも仕方ないかとまずは応接間に向かった。
が、そこにはソルティーの姿は無く、狼狽えるハーパーだけが居た。
「あれ? あの兄ちゃんは?」
「判らぬ。戻ってみれば姿がなかったのだ。剣を残して居るのだから、お戻りなるとは思うのだが」
「ふ〜ん、じゃあ見付けたら部屋に戻れって言っとくよ」
「頼む」
この広い屋敷の中だ、見学でもしていれば戻るのに時間が掛かるとミシャールは考え、特に心配もせずに応接間を後にした。
「はぁ、嫌だなぁ、次はあの馬鹿かよ…」
軽く頭を掻きながら、会うと喧嘩を吹っ掛けたくなる相手を思い浮かべれば、ついつい気が滅入ってしまう。
それでも無視をする訳にもいかず、仕方ないと思いながら居間に向かった。
「入るぞ」
ノックなど知らないミシャールが思いっきり扉を開くと、床に蹲った恒河沙の背中が最初に目に飛び込んできた。
「おい、飯だぞ。お前の分が無くなるぞ」
そう言ってみたが、恒河沙は全く反応しない。
この一月の間、ミシャールも恒河沙の食べ物への執着は、よく理解していた。それこそ熟睡していても、食事の一言で飛び出してくる様な勢いも知っている。
どうも様子が変だと思うには、この静けさは当然すぎた。
「おい、寝ているのか? 後で食わせろと言っても、出さないぞ」
様子を伺いつつ近付いてみると、はっきりしない呟きが聞こえ、何を言っているのかと耳を澄ます。
「……だ……嫌だ……嫌だ……」
一定の間隔を置いて繰り返し呟かれる言葉に、内心気味悪さを感じ、それでも恒河沙の横にまで来てぎょっとした。
恒河沙の前にはミシャールにとっては忌まわしい大剣が置かれ、そこに血が飛び散っていたのだ。しかもよく見ると恒河沙の手が血塗れで、彼は自分からその手を大剣に叩き付けていた。
「お前……何やってんだよ……。おい、止めろって!」
恒河沙が正気ではない事は直ぐに見当がついた。
もしこのまま暴れ出したらとかなり危険だと感じながらも、ミシャールは気がつけば大剣を挟んで彼の前に膝を着き、また振り下ろされそうになった腕を掴んだ。そして全く焦点の合わない眼差しを睨み付け、もう一度大声で呼びかけた。
「何してるんだって聞いてるんだよ!」
目を合わせているのに、その目は何も見ていない。
顔色も最悪で、焦燥しきっている事は、誰に目にも明らかだ。
「おいっ!」
大声で呼び掛けても体を揺すっても目に正気は戻らず、ミシャールは自分が冷静になる為の深呼吸をしてから、思いっきり恒河沙の頬を、出来る限りの力を込めて拳で殴った。
「しっかりしろよっ!」
手加減の欠片もない拳に倒れた恒河沙の肩を掴み、力任せに起き上がらせてもう一度彼の目を覗き込む。
そこに僅かに感情の兆しが見え、もう一度ミシャールは彼の頬を、今度は平手で叩いた。
「………あ…」
恒河沙は叩かれた事よりも、目の前にいつの間にかミシャールが居る事に気付き、小さく声を出す。
「ちょっとは戻ったか? 何があったんだ?」
問い詰める気も、理由を聞きたい訳でもない。このまま恒河沙を放っておけない、それだけの気持ちだった。
少なくとも自傷行為に無意識に走るのは、そうある事ではない。それに恒河沙の普段を嫌でも知ってしまっただけに、この行為はあまりにも彼に似つかわしくなかった。
「なあ」
「……なんでもない」
視線を逸らし、俯こうとする彼にミシャールは眉間に皺を刻む。
「何でもないって? そんな顔して、しかもこんな怪我して、それで何でもない? ふざけんな」
子供の世話をしていると、自然と僅かな表情の違いで何を考えているのか判る。
病気か、誰かと喧嘩をしたのかとか、言葉を多く持たない子供は、周りがそれを理解してやらなければ、飛んでもない事になるとミシャールは知っていた。
体に染みついた習性と言うやつで、知らない間にミシャールは恒河沙の前に腰を据え、彼の肩に置いた両手に力を入れた。
「何があった?」
真っ直ぐに彼の目を見つめると、恒河沙はまた俯いて「関係ない」とだけ言った。
「関係ないよ。ああ、確かにあたしには関係ないけど、関係ないから聞いてあげられるんだよ?」
ミシャールは子供に言って聞かせる様に、突き放す口振りで優しい言葉を使う。前掛けを外し、それで恒河沙の手を包むのも自然な仕草だった。
「関係ないから、別の言葉をあんたに聞かせられる。関係ないなりの判断が出来るんだ」
「関係ない……?」
「そうだよ。人って言うのはさ、考え事があると一つの事しか頭に浮かばない事がるだろ? だから関係の無い他人が、他の考えを教えられる事がある。関係のないやつは、関係ないなりの使い方が在るんだよ」
「………」
「まあ、最後にはさ、本人が決めなきゃなんないけど、その前に一回くらい、関係のないやつの意見ってのを聞いてみなよ?」
少しだけ顔を上げた恒河沙にミシャールは子供に見せる微笑みを見せ、泣きたくても泣けない重傷を負った彼に捌け口を与える。
「……俺…」
そう言ってまた黙った恒河沙を、ミシャールは何も言わずに待った。
無理に口を開かせては逆効果にしかならないのも、今までの経験でよく分かっていた。だから余計に、恒河沙の今の状態が放っておけない事も理解出来ている。
作品名:刻の流狼第三部 刻の流狼編 作家名:へぐい