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刻の流狼第三部 刻の流狼編

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 竜族を相手に人間が言う台詞ではない。しかしソルティーは厳しい眼差しを浮かべるハーパーに小さく笑って見せた。
「大丈夫、ローダーが揃っている今なら制御は出来る」
「しかし」
「判っている筈だ、あれは精霊の力ではない。お前では無理だ」
「主……」
「精霊じゃない……?」
「もう話をする暇はないだろ。良いから私を跳ばせ」
「……確かに」
 大気その物も熱を持ち始め、気がつけばかなりの汗が滲み出していた。
 自分ではどうする事も出来ないシャリノはソルティーの言葉を信じるしかなく、緊張の面持ちで彼に手を伸ばした。


 正面の上下から襲ってくる炎の蛇。それを渾身の力で潰した瞬間、恒河沙は自分の目を疑った。
「なっ?!」
 そう言ったのは須臾だ。
 彼もまた視線の先にある光景が信じられず、驚きに目を見開き、瞬時にさっきまでソルティーが居た場所に視線を送る。しかしそこには彼の姿はなく、再度そこに、ルカヌスの後方へと目を向けた時には、彼は二振りの剣を鞘から抜きながら走り出していた。
「ソルティー!!」
「馬鹿呼ぶなっ!!」
「貴様?!」
 恒河沙の声にルカヌスが体を翻す。蜷局を巻く炎を切り裂いたソルティーの剣は、ルカヌスの肩を斬るだけに終わり、
「ツァラトストゥラ様っ!」
 気が狂った様な声でルカヌスは叫んだ。
 神への叫びはそのまま蛇を氾濫する河のように変え、押し流すようにソルティーに襲いかかった。
「ソルティーッ!」
 誰の視界からもソルティーの姿は消えた。残っているのは巨大な炎の塊と、肩を押さえながらも高笑いをするルカヌスの姿だけだ。
 頭が真っ白になった恒河沙が慌てて駆け付けようとしたのを、咄嗟に須臾が取り押さえる。
「放せっ!」
「お前まで死ぬつもりかっ!!」
 体勢を立て直して再度という暇はないのかも知れない。しかし闇雲に突進しても結果は目に見えていた。
 須臾は暴れる恒河沙をせめてハーパーの所まで下がらせるつもりでいたが、再び目を見開く事になった。
「何で……生きてる……」
「……ソルティ……」
 二人が信じられないと言う気持ちで見つめる先には、炎の切れ目に見え隠れするソルティーの姿。
 僧兵を消し炭さえも残さずに燃やす炎に包まれながらも、彼はしっかりと立ち、恐怖に顔を引きつらせるルカヌスを見つめていた。
「どうしてだ……何故生きている?!」
 炎の強さは、床や天井の色を見れば判る。決して幻ではない炎の中に居ながら、髪の毛の先さえも燃やす事が出来なかった。
 それどころかまるで何かに護られている様に、炎は彼に届いてさえもいない。
 重ねる様に持たれた二本の剣。それぞれの剣身に刻まれた文字を象る呪紋が様々な色の光を放ちながら、剣その物は純白と漆黒に輝きを放つ。そしてその輝きは、明らかに炎を吸い込んでいた。まるで蝕むように。
「如何なる対の者で在ろうと、礎を消し去る事は叶わぬ。我が力、我が命、礎の理にはあらゆる秩序も届かぬと知れ」
 静かに、そして深く、瞼を降ろしソルティーは呟く。
 その言葉をソルティーが言い終わると同時に、ルカヌスが生み出した炎は跡形もなくソルティーの持つ剣へと流れて消えた。
「剣が……食べた……」
 柱の影から様子を見守っていたミシャールが呟き、ハーパーを除いて全員がそう見えただろう光景だった。
 そして残ったのは、恐れ戦いたルカヌスの姿だ。
 ソルティーはゆっくりと目を開け、自分を見つめる畏怖の眼差しを真っ直ぐに見た。
「ひっ、ひぃぃぃ!!」
 予想だにしなかった出来事に、ルカヌスは震えながら後ずさる。全身の体毛は逆立ち、歯の根は無意識に音を立てていた。
 逸らそうと努力してもソルティーから視線を外す事が出来ない。
 恐ろしかった。自分を見つめた瞳が鈍い闇の様に黒く輝くのが、途轍もなく恐ろしい者に見えた。
「ツァラ…ツァラトストゥラ様……今一度…お…お力を……ツァラトストゥラ様!!」
 戦意を喪失し力を失ったルカヌスを、ソルティーはそれ以上追い立てたりはしなかった。
 ルカヌスにはもう何も残ってはいない。精霊を操る一般的な力さえも、ローダーは炎と一緒に食い尽くしてしまった。最早彼は、哀れな力無い男でしかない。そんな男に剣を振り落とす気にもなれず、ソルティーは握り締めた剣柄から力を抜き、高揚した心を落ち着かせる為にもう一度瞼を降ろした。
「…どうしてです…お声を…力を……」
 ルカヌスは本能で感じる恐怖から、いつの間にか震える体が膝を着いていた。逃げを打つ体は無様に床を這い、それでも口は覚えたての言葉を繰り返す子供のように、必死の願いを唱え続ける。
 己の保身と絶対の力を。
「ツァラトストゥラ様…応えて下さいっ!」
 ルカヌスは涙と鼻水で顔を汚しながら尚も叫ぶ。誰もそれに誰かが応えるとは思っていない。仮にルカヌスの部下が居たとしても、叶えられるとは考えないだろう。
 しかし、
『ルカヌス…何を慌てて居るのか……』
「ツァラトストゥラ様っ!」
 何処からともなく聞こえてきた声に、ルカヌスは歓喜の声を上げた。
 その落ち着いた声は誰にも聞こえたのか、全員が周りを見渡した新たな人影は何処にもない。
「ツァラトストゥラ様、私に今一度お力を! 力をっ、力をお与え下さいっ!!」
 歓喜と狂気。この二つの表情を同時に浮かべながら、ルカヌスは握り締めた紋章に額を擦り付け、蹲ってその答えを待った。
 ソルティーは緊張した面持ちでもう一度ローダーに手を掛け、声の気配に耳をそばだてる。
「ツァラトストゥラ様っ!」
『クク……クククッ…アーーハハハハハハハッ』
 壁に反響しない笑い声が大きく聞こえ、ルカヌスの前に一つの小さな灯火が現れ、それは瞬く間に火柱となった。
「ツァラトス…トゥラ様……」
『誰がツァラトストゥラだって?』
 楽しそうな低い男性の声は、明らかに先刻とは違っていた。
 最初の声が威厳を感じさせるまさしく神の声と表するなら、今放たれている声は嘲りに満ちた野蛮さに満ちている。
『一度でも俺がその名を口にしたか?』
 突如現れたと同じに火柱が消え、若い男が姿を現した。
 血の色を灯す鋭い眼差しに似合った短い髪は炎の色をし、全身は不必要な程のベルトを袖や胸、腰に靡かせる黒一色の皮のコートに身を包んでいた。
 男を見た途端、須臾と恒河沙は臨戦の態勢を建てたが、それをソルティーは右手を横に上げて制した。
 しかしソルティーが止めなくても、彼等が男の元へ行き着く事が出来たかどうかは疑問だろう。
 絶対的な力を前に、人はその驚異に体は動かなくなる。
 今のルカヌスの様に。
『おら言えよ、誰がツァラトストゥラなんてけったくそわりぃ名前を言ったんだ?』
 ルカヌスの額を踏みしめ、男は蔑む視線だけを彼に向けた。
『ったく、暇潰しに応えてやればつけ上がりやがって、ほんと地を這う奴等は馬鹿ばかりだ。てめぇの守護者かどうか区別が付けられねぇなんてよ』
「そ……そんな…馬鹿な……」
 ルカヌスは踏みしめる男の足を振り払う事も出来ずに、呆然と男の酷薄な笑みを見上げる。
「馬鹿な…私は声に…ツァラトストゥラ様のお告げに従って……だから……」