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刻の流狼第三部 刻の流狼編

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 驚愕に目を見開くミシャールの傍らで、シャリノは面白そうに唇の端を釣り上げていた。
 鞘から抜き出されたのは、確かに何の変哲もない鋼だった。それが構えられ横にスッと振られた瞬間、闇を輝かせた。
 斬ってはいない。触れたかさえも疑わしい。それでも確実に人の身幅もあるだろう分厚い壁は崩れていった。
 この異様な事実に驚くのはミシャールだけではなく、突然静かに入ってきた男の侵入に術者達は慌て、だが更に彼等に追い打ちを掛けたのは、周囲に満ちていたはずの理の力が消失してしまった事だろう。
 明らかな敵の侵入を防ごうとすれども、術者の言葉は力を紡ぐ事は出来なかった。
 溜息さえも出せぬまま呆気なく術者達は気絶させられていき、ソルティーは剣を鞘に収めミシャール達に振り返った。
「消えたよ」
 それが結界の事だと気付くのに、ミシャールは少し掛かった。
「お兄ちゃん大丈夫?!」
「あったり前だろ。――よ、あんがとよ」
 シャリノは抱き付いてきたミシャールを小さな体で受け止めながら、近付いてくるソルティーに向かって片手を上げる。
「いきなり怪我人押し付けて悪かったな、なんせ非常事態だったから仕方なかったんだ」
「話は後で良い。まず先に此処から出よう」
「そうよお兄ちゃんっ、とっととこんな所からおさらばしよっ!」
 シャリノの力を封じている結界は消え、そうとなれば脱出は簡単だった。
 だが彼はミシャールを押し退けるように立ち上がり、恒河沙達の方へ顔を向けていたソルティーに話しかけた。
「悪いけどさ、迷惑ついでにあのクソ司祭ぶっ殺してくんねえ?」
「なっ、何言ってんのよ! もうあいつの事なんかどうだって良いじゃんっ!!」
「何故?」
「今やってる戦、あいつが仕掛けてんだよ。走り出したもんは止められねえが、あいつが消えればちっとは早くケリがつくかと思ってな」
「だからそんな事どうだって良いだろっ!」
「なあミシャール、その言葉ウチのガキどもの前で言えるなら言う事聞いてやる」
「ッ……ごめん」
「良し、許す。――って事で頼む」
「気楽に言ってくれる」
 自分で手を下す気も無ければ、ソルティーが断るとも欠片も考えていない。そんなシャリノの顔を見下ろし、ソルティーは呆れ果てたと言わんばかりに肩を落とした。
 もっともシャリノがかなり無理をしているのは、以前会った時から随分とやせ細っている姿を見れば想像がつく。もしもこれが私怨ならば断る言葉も浮かんだだろうが、彼の目的は別にあった。
 結局ソルティーはシャリノの期待する眼差しからルカヌスの方へと顔を向け、ゆっくりと足を踏み出した。
 だが丁度その時、地下室にまた耳障りな声が鳴り響いた。
「待てっ! 逃がさんぞ、貴様っ!」
 ルカヌスは残り四人にまで減らされた僧兵に守られながら、いつの間にか結界から出ていたシャリノに向かって指を突き出す。それを見て恒河沙達は目配せの後に頷き、一端後ろへと下がった。
「このまま逃がすと思うか! 手に入らぬのならいっそ殺した方がましだっ!」
「いやぁ〜まるで男に振られて自棄になった女みたいだね」
「止めろよ気色悪い! お兄ちゃんはそんな質の悪い女に引っかかるわけないだろ」
「きぃ〜さぁ〜まぁ〜らぁ〜〜っ、許さん!」
 今にも血管が切れそうな程真っ赤になった顔を怒りにまみれさせ、首に下げていたレス・フィラムスの紋章を象った首飾りを引きちぎり、掌に包み込む。
「ツァラトストゥラ様お力をっ!!」
 それは呪文でも何でもなく、何の変哲もない祈る言葉。それにも拘わらず言葉に反応するように首飾りが眩い光を放つ。
「避けろ!」
 ソルティーが咄嗟に叫びを上げ、ミシャールとシャリノを抱えて柱の方へと走り、同時にルカヌスの周囲に業火が蛇の形となって現れ飛びかかってきた。
 最初の犠牲者はルカヌスの前で彼を守っていた僧兵の一人であった。突如現れた高熱の蛇に体を貫かれ、断末魔を上げる暇さえもなく蒸発させられ、蛇の次の目標は恒河沙だった。
「うわぁっ!」
 恒河沙は牙を剥いて襲いかかる巨大な蛇を避け、大剣でその頭を潰したが炎は炎だ。潰した所からまた頭となり、しかもルカヌスが生み出す蛇は一体ではない。
 二体三体と増え続け、他の三人の僧兵では留まらず、せっかく恒河沙達が気絶させていた者達さえも焼き尽くしていく。しかも問題は他にもあった。
「主、これは人為とは思えぬ」
 人の扱える力は上限がある。どれだけ才があり恵まれていようとも、決して竜族の域にまで力を高める事は不可能だ。そのハーパーが緊張を忍ばせながら語る言葉以上に、危険を含む言葉はないだろう。
「ありゃ〜〜、こりゃやっぱ逃げとくか?」
 恒河沙と須臾が必死になって蛇の頭を潰しているが、そうするだけで精一杯の様子であり、とても近づける状態ではなかった。
「やっぱ所かさっさとに決まってるでしょ!」
「いや、あの男をこのままにしては危険だ」
「あ〜〜やっぱりなぁ〜〜」
 荒れ狂う業火の蛇の隙間から、常軌を逸した表情で笑うルカヌス見える。その異常な姿はとても放っておいて良い物には見えず、先に言い出したシャリノは困ったように頭を掻いた。
 ただそうしている間にも蛇は増え、炎は増して言っている。
「くそっ!!」
 前方からの蛇を避けながら、横から襲いかかってきた蛇の胴体を恒河沙の大剣が引き裂く。その直ぐ近くでは須臾が槍を構え、同じように蛇の頭を潰していた。
「ああもうキリがない!!」
 そう言っている間にも新たな蛇の頭が炎から生まれ、前から横から襲いかかってくる。
――くそ、ヤバいな。空気が薄くなってきてる。
 それは炎の熱さ以上の危険だった。
 視界の端で確認した恒河沙の肩も、息苦しさを表している。このままではそう長くは保たないだろう。
 そしてそんな危機感を、恒河沙自身も感じていた。
――なんとかしなきゃ、なんとか……。
 少しずつ怠くなる体。忌々しい蛇を潰す大剣の柄を握る手に力を入れ直しながら、恒河沙はそこにある“傷”にふと目をやった。
――力……出せば……。
 聖聚理教の神殿地下で“盗賊”を退けた力は、これまでに何度か出ていた。どんな仕掛けなのかは彼自身も理解していないが、負けられないギリギリの場面で出せていた。
 今がそうだと思う。出せれば蛇を退け、あの忌々しい笑い声を響かせる男を倒せると。
 だが恒河沙はギュッと唇を噛み締め、一瞬だけソルティーの方へと視線を向けただけだった。
――俺もう……。
 これ以上自分の普通ではない姿を知られたくない。
 この状況で考える事ではないと知りつつも、恒河沙は確かにそう思ってしまい、その気持ちのままに力は現れなかった。
「……私を司祭の後ろに跳ばしてくれ」
 ソルティーは一瞬だけ視線の合った恒河沙からシャリノへと向き直り、息を吐き出しながら呟いた。
「いや……跳ばすのは簡単だけど……ヤバいぜ?」
 ルカヌスの周囲には彼を取り巻く様に炎の蛇が蜷局を巻いている。一瞬で人を蒸発させるだけの威力を持つ炎の中へ飛び込むのは、まさしく自殺行為だろう。
「良いから」
「良いからって……」
「我が行こう」
「無理だ」