刻の流狼第三部 刻の流狼編
「ああもう煩いっ! 馬鹿の相手なんかしてると、あたしまで馬鹿になるだろ。馬鹿は何処か別の場所で馬鹿してろ!」
「う゛〜〜〜〜〜!!!」
「こ、恒河沙、抑えて。彼女怪我人なんだから」
引きつけを起こしそうな程真っ赤になっていく恒河沙を、咄嗟に須臾は抱き付いて宥めようとしたが、彼が爆発するのは時間の問題だと心の中で泣いた。
しかもそんな須臾の気持ちも知らず、尚も横になったまま女の悪態は納まらない。
「ああもう馬鹿みたいに信じらんない。冗談じゃない、こんな馬鹿だと判ってたら、あの時負けてなんか無かったのにぃ。馬鹿馬鹿しいったらありゃしない」
「この〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっ!!」
「いい加減にしなさいよ君達はぁ」
須臾の制止も聞かない二人は睨み合いながら徐々に近付き、恒河沙は女が怪我人だとも女性だとも頭から転がり落ちていた。
おそらくその時扉が開かなかったら、須臾も巻き込まれての喧嘩は必然だったに違いない。
「ソルティーッ!!」
ハーパーと話を済ませた後、街で買い物をして帰ってみれば、須臾が恒河沙に抱き付いて自分に助けを求めていた。
「……何をして居るんだ、怪我人を放って」
また汗を出しているベリザを見て、ソルティーは眉間に皺を寄せる。
「それどころじゃ……」
「ソルティ〜〜、彼奴酷いんだよ、俺わかんないから聞いてるのに、馬鹿って言う〜〜」
一気に体の向きを逆にして、自分を放り出しソルティーに抱き付く恒河沙に、須臾は本気で泣きそうになった。
「そりゃ無いよ……」
先刻まで押さえ込んでいた手のやり場に困る。
「俺何かした? なあ、なんか俺した?」
「………須臾、何があったんだ?」
「僕が知るわけ無いでしょ!」
「………」
ソルティーはしがみついて離れない恒河沙と、何故か怒りだした須臾を交互に見比べるも、真剣に関わる程ではないと判断した。
ただし無視を決め込めそうにもなく、一言ずつで終わらせる。
「恒河沙……話は後でちゃんと聞くから、先に彼の面倒を見なさい」
「……う…うん」
「須臾も、何があったかは知らないが、矛先を私の向けるのは違うだろ」
「そりゃあ……」
「少なくとも彼の容体が落ち着くまでは、もう少し静かにしてあげないと、良くなる者も良くならない」
恒河沙の腕を解きながら一人冷静に話しを進め、ソルティーは買ってきた物を持ってベッドに寄った。
「君も、まだ元通りの体ではないのだから、静かにして居た方が良い。これ、着替えだから、歩ける様だったら私の部屋で着替えてきなさい」
成る可く説き伏せる様に落ち着いて話をするソルティーに、女は悔しそうな顔をする。
嘗ては敵だった相手に助けられ、しかも今はそれに頼らなくてはならず、彼女の自尊心は粉々だった。
唇を噛み締め、それでも彼女はソルティーの置いた包みに手を伸ばし、ゆっくりと体を起き上がらせた。
その様子にソルティーは胸を撫で下ろすと、後は彼女の好きに任せた。
「……礼は言わないよ」
「構わない。そんな物を始めから期待していない」
「そんな言葉、誰が信じるもんか」
そう小さく呟いて女はベッドから抜け出し、蹌踉けそうになる体を自分の力だけで支えて立ち上がった。
「私の部屋はこの部屋を出て左隣だから」
「あたしが居ない間にベリザをどうにかしたら、全員ぶっ殺してやる」
「そんなつもりがあったら、君達はもうこの世に居ないよ」
「ッ!!」
悔しさを詰め込んでソルティーを一睨みして、女は肩を怒らせて扉に向かった。
第三者の善意など真っ向から否定する彼女に、ソルティーは溜息を吐き出した。
――信用させるのは無理そうだな。
力一杯に音を出して閉じられる扉を髪を掻き上げながら見つめ、ベリザの方に向かう。
しかし、ソルティーがベリザの様子を伺う恒河沙の横に立った時、もう一度派手な音を立てて扉が開いた。
「あんた一体何考えてんのよっ!!」
顔を真っ赤にしてソルティーに大声を出す彼女の右手には、白い小さな布が握られていた。
「何って、合わなかったのか?」
「〜〜〜〜〜っ! このどスケベッ!!」
一言そうぶつけてまた盛大な音で扉が閉められた。
女が手にしていたのは下着だった。
「どスケベ……」
汗を出して着替えが必要だと思ったが、選んだのはソルティーではない。
病人の着替えが無いと店の店員に説明して用意して貰った物を、合わなければ交換しますと言う台詞に安堵しながら、確認もせずに買ってきただけである。
どうして怒鳴られるのか全く理解できない状態でポカンとしていると、聞こえてきたのは呆れ混じりの須臾の声だ。
「……女心の判らない奴……」
「女心? どうして、汗で濡れた物を着ていては、余計に体に悪いだろ。それに店員の選んだ物だから、それ程悪くは無い筈だが」
「ハァ……駄目だこりゃ」
大仰に首を振り、両手をあげて須臾は判ってないと呟く。
「あのねぇ、女の子が男に下着まで用意されて恥ずかしくない訳無いだろ? 体に合ってれば尚更、裸にして確かめられたんじゃないかって思うのが当たり前だよ」
「ああ、そうか、それは悪い事をしたな。後で裸にしていないと説明してあげないと」
からかうつもりで言ったのに、ソルティーは異常なほど真剣に考え込み、須臾は目一杯肩を落とした。
「今度はちゃんと確認してから買いに行こう。確かにその方が手間は無い」
そしてこんな風に結論づけられれば、からかった方が虚しくなる。
要は須臾の様にそれとなく女性から話を聞き出し、相手好みの贈り物を必死で探すような大変さを、ソルティーは味わった事が無いのだ。
血の滲むような努力もせず、湯水のように金銭を注がずとも……。
「はぁ〜〜〜〜〜〜〜〜、ほんとにやだ、この男……」
これ以上無い程顔を真っ赤にして部屋に戻ってきた彼女は、意外にあっさりとベッドに戻ると、怒りを紛らわす為に置いてあった食事を口の中に放り込んだ。
彼女なりの怒りの鎮め方に気が付かないソルティーが、「良かった、服は合ってたね」と大きなお世話を言いさえしなければ、もう少し早く彼女の怒りは納まっていただろう。
それでも昼を過ぎた辺りでベリザの熱が下がり始め、彼女の微かな安心は全員に伝わった。
「一応、名前だけでも教えてくれないか? いつまでも“君”じゃ不便だ」
「……ミシャールよ。で、あんた達は何者なんだよ、どうしてあたし達を助けたりしたのさ。あたし達はあんた達の敵だった筈だろ」
「敵? ――何をどう誤解しているのかは知らないが、……いや、判っていて言っているのだろうが、私達はあの時、聖聚理教に頼まれたから御神体を守っていただけだ。それが終わった今は、何の関係もない。それに今は、突然現れた怪我人の世話をしているだけで、味方とは言わないが少なくとも敵とも違う」
ソルティーが彼女の隣のベッドに座り、向かい合って話をしたが、それは彼女の期待に添えない言葉だった。
ベリザとミシャールの様子はかなり違い、彼女は明らかにソルティー達の存在に驚き疑問を感じている。もしこの事に何かしらの真相があるなら、知っているのは彼の方だろう。
作品名:刻の流狼第三部 刻の流狼編 作家名:へぐい