刻の流狼第三部 刻の流狼編
その体には大き過ぎる針と糸をやっとの事で運びながら、愚痴を零しながら男の前に飛んできたその顔は、どことなく嬉しそうだった。
ソルティー達と合流を果たしたハーパーの最初の仕事は、恒河沙の為の食料調達だった。
数刻掛かりで離れた町と往復をし、彼が仕入れてきたのは食料だけではなく、何よりも嬉しい情報だ。
確かにアジストラが、北のジギトールから侵攻を受けている。と言った、あまり芳しくない話であったが。
もう一度ハーパーも交えてこれからの進路を話し合ったが、最終的には矢張り一度ジギトールへの国境を目指す事に纏まり、その日は早くに休息する事にした。
ハーパーの話では、ジギトールの侵攻に国境沿いの街や村は大きな被害を受け、略奪や焼き討ちが随所で行われているらしい。
ラバサの余所者に対する脅えが含まれた警戒心は、アジストラ内では何処の街に行っても同じだろう。
「ただ略奪をするのは野盗と同じではないか」
焼け落ちた街道沿いの家を見ながらソルティーは呟く。
戦と言いながら、ジギトールの行っている事は、国境沿いの街を襲う事だ。
「これが信仰国のする事か……」
しかも街を襲っているのは、ジギトールの僧兵だった。
信仰する対象によってその掲げる教えは違う。しかし神の恩恵を受け、人々を導く立場にある国が、どんな理由であってもこんな暴挙を起こして良い筈がない。
――こんな事、昔は無かった。
神を知り、神と世界を共にしていた、幼き日の美しかった世界を思い出し、ソルティーは唇を噛み締めた。
だが変わってしまったのは、世界なのか、それとも人なのだろうか。
そんな疑問さえも不安として浮かび、後者への疑念がより大きくソルティーにのし掛かっていた。
食料と共に買い求めてきて貰った地図を片手に、四人がアジストラとジギトールの国境に辿り着いたのは、アジストラに入ってから四日目の昼頃だ。
数十人の多種族で形成された警備兵を前に、ソルティー達が出した書面は色々な面で、良いも悪いも含めて効力を発揮した。
確かにアストアの国印と王の署名は、アジストラとは無関係である証明になったが、別の警戒心を植え付ける結果に繋がった。
四人別々に尋問に近い越境理由を問われ、予め示し合わせて居なければ拘留されていた。それでも四人が越境を許されたのも、またアストアの御印の賜と言える。
「ああ、もう、気持ち悪かったぁ! ちょっと聞いてよ、彼奴等僕の事女だと勘違いして、体触ってきたんだよ。信じられる? こんな男前に向かって!」
国境の官署を出てからずっと、須臾は憤懣やるかたない状態で、延々警備兵の態度を糾弾し続け、一方恒河沙は始終嬉しそうに口に棒を銜えていた。
――やっぱりソルティーの言う事は正しい。
『お前はずっと、わかんないと言っていればいい。何があっても何を言われても、絶対に怒るな。聞き流せ』と、最後に回ってきた自分の尋問の際にそう言って送り出した言葉に従ったら、どうしてか諦め顔の尋問係に棒付き飴を渡され、直ぐに出して貰えた。
「ソルティーも食べる?」
五本も貰えた飴の一本を差し出し、助言のお礼にしようかと思ったが、ソルティーは甘い物は好きじゃないと断った。
ただし恒河沙の尋問が手早く切り上げられたのは、手段を切り替えただけに過ぎない話だったらしい。
ソルティー達の後方には先程の警備兵が数人付けていた。
それを態と無視し、割と安易に考えていたのは、早々にこの国を抜ければ良いと思っていたからだ。
少なくともソルティーはそのつもりだった。
ジギトールの成る可く辺境を目指しソルティー達は北へ向かった。
王都に近くなれば警戒は強まり、見張りが増える事は間違いなく、下手をすれば疑いだけで拘束されるだろう。
国境の官署に掲げられていたジギトールの国紋を目にし、其処に描かれている炎の姿に、ソルティーはこの国の事を気にしないように努めた。
信仰国ジギトール。
この国を治める者は、王ではなく、ツァラトストゥラ。
力と破壊に身を置く、ソルティーの敵に味方する精霊神。
「やっと、やっと……ああ、僕の柔らかな寝場所」
数ヶ月ぶりの忘れていた感触を取り戻す様に、須臾はあまり豪華とは言えないベッドに倒れ込むと枕に頬ずりした。
ジギトール東南に位置する小さな街に辿り着いたのは、三度の野宿をしてからだ。
昼少し前に街に入り、ソルティー達が一番始めに捜したのは宿屋だった。勿論それを提案したのは、食事を要求する恒河沙の口を塞いだ須臾であり、流石にソルティーも意見を共にした結果である。
「ハーパーは良いのか?」
部屋に入った途端ベッドに飛び込んだ須臾を無視して、廊下で隣の部屋に向かうソルティーを恒河沙は呼び止めた。
「……そうしたいのはやまやまだが、この宿では無理だろう?」
この街には小さな宿しか無く、部屋の広さより前に狭い廊下しか無いのでは、ハーパーの様な体はどんなに試行錯誤しても入るとは思えない。申し訳ないとは思うが、何時も通り彼には宿の裏手に野宿をして貰う事になったのだ。
ハーパーにしてみれば、窮屈極まりない人の為の部屋に居る方が大変とソルティーは知っているが、恒河沙の気持ちを考えて廊下を見渡しながらの言葉に代えた。
「そんな事より、お前も体を休ませた方が良い」
ベッドの上で恍惚としている須臾に視線を移し、恒河沙の背中を部屋に入れようとするが、その体は中に入ってはくれなかった。
「どっか行くの?」
「………」
「どっか行くなら俺も行く」
――どうしてそう変な所で勘が働くんだ?
それと知れる話をした記憶は無い。
しっかりと自分の袖を掴んで放さない恒河沙に、暫く考えた挙げ句ソルティーは肩の力を抜いて降参した。
「判った。でも、買い出しに行くだけだから、少し休んでからでも良いだろ? そうだな、荷の整理も済ませたいし、それから。夕刻位でも良いか?」
別に隠して一人で行動するつもりではなかった。ただ自分とは違う二人を考えた結果、買い出しに行くのは自分の役目だろうと思っただけだ。
「うん」
「じゃあそう言うことだから、それまでちゃんと休むんだぞ」
「うん」
頷いた恒河沙にソルティーは納得して二人の部屋の前を後にした。
ソルティーが借りた部屋の窓から見える景色は、とても50デラスも離れていない場所で、略奪が繰り返されているとは思えない、静かな田舎の景色だった。
わざわざ他国の領土を侵さなければならない程の飢えも感じられない。寧ろジギトールの方が豊かな感じを受ける。
――戦の宣戦をしていながら、この状態は納得できないな。しかも略奪しているのが、兵士ではなく僧兵だと言うのが変だ。
窓を開け、枠に腰掛けて三階からの風景に考えを走らせる。
「……矢張り此処も、神殿絡みか」
煙草に火を灯しながら、シスルの時とは違う何かを思案した。
あの時は信仰者同士の諍いに端を発し、それに国が巻き込まれ、他国が餌に群がる獣のように加わった。今起こっている戦とは全く違う戦だ。
作品名:刻の流狼第三部 刻の流狼編 作家名:へぐい