刻の流狼第三部 刻の流狼編
ソルティーにしっかりと頷いて見せ、イニスフィス達は三人に背を向けて歩き出し、途中テレンが振り返り、
「恒河沙、短気起こすんじゃあねぇぞ」
「るっせぇよ。…でもあんがと…」
強がった恒河沙の言葉に、テレンは一度だけ手を振るとまた前を向いて二度と後ろを振り向かなかった。
「さてと、私達も行くか」
イニスフィス達の姿が完全に視界から消え、森の外の光に視線を移したソルティーの言葉に全員が頷く。
「うん」
「やっとまともな食事とベッドにありつけるぅ」
喜びに震え、感慨深い須臾の意見に、全員の足取りは速くなった。
ソルティーがイニスフィスに頼んだニーニアニーへの言伝は、
「私の分は必要ないから」
そんな簡単な言葉だった。
ニーニアニーに頼んだ言葉に付け加えられた、必ずそうなるだろう約束に対する言葉。
必ずニーニアニーが怒り、そして悲しむ言葉は、そのままソルティーの願いだった。
「なあ、お前良かった訳? あれ、お前のお気に入りだったじゃん。それも全部……」
暇を持て余して恒河沙を観察していた須臾は、あの短剣がどれだけ恒河沙にとって大事だったかを知っていた。
奔霞の武器商で一目惚れしては、この食欲大魔王が自分の食費を削って、我慢に我慢を重ねて買う姿を間近で見ていたのだから、須臾の疑問は無理からぬ物だった。しかし恒河沙は少しも後悔している顔は見せず、「いいんだ」と口にした。
「でもこれからどうする訳? あげたんだから消耗品とは言えないし」
消耗品なら遠慮なくソルティーに集れるが、先刻の事はソルティーも見ている。流石にこの補填までは頼めないだろうと須臾は悩んだ。
「いい。お小遣いあるからそれで買う」
「お小遣い?」
「うん。ソルティーが買い出しのお釣り、お使い賃だってくれたの貯まってるから、それで買える」
「……………ふふーん、そう、なぁる程」
須臾は引きつった口元の笑みと、恐ろしいまでに尖った視線を一瞬だけソルティーの背中に送り、恒河沙の肩を抱き寄せながら大きく息を吸った。
「ソルティー! 恒河沙がテレン達に暴れたお詫びにって、短剣全部あげちゃったから、買ってあげてっ!」
「須臾っ?!」
何もこんなに間近で声を張り上げなくてもいいのに、恒河沙の制止も間に合わず、須臾は沸々と煮えくり返る怒りをそのまま怒鳴った。
それが何に対しての怒りか判らないソルティーは、振り返って二人を見たが矢張り理由が思いつかない。
「……あ、ああ、それは…構わないが」
「あ・り・が・と!」
一言一言に険と棘が含まれる須臾の礼に、疑問は残るが敢えて聞かない事にして、何故か身の危険を感じる視線を背中で受け流す事にした。
――僕にはお釣りを返せって言ったくせにぃ〜〜〜!!
須臾はかなり低次元な怒りに身を震わせ、恒河沙は彼の物凄い表情に肩を落とす。
何が須臾を此処まで怒らすのか、それを一番理解しているからだが、元はと言えば須臾がお釣りを勝手に頂戴したり、ソルティーの財布を持ち出さなければ良かったのだ。
――ソルティーと一緒にいこ。
もし須臾を連れていこうものなら、これ見よがしに使えもしない高級品を買うに決まっている。
手に取るように判ってしまう須臾の心の狭さに、恒河沙は心の中でソルティーに頭を下げた。
勿論、恒河沙の頭には遠慮という文字は、全く浮かんでこなかったが。
他の森とは違い、森を取り囲む様にアストアは他国と領地を共有する場所がある。
其処は誰にも必要とされていないのか、遠くに見える他国の国境まで何も無い道が続く。その何もない森までの距離がそのまま、人の運命を左右する場所になっていた。
近付くだけで襲いかかる驚異を最小限に食い止める為に、人が引いた境界線。
この空間が存在する限り、人と森とは世界を共にする事は不可能だろう。
ニーニアニーがイニスフィス達を介してソルティーに渡した物は、四人分の外交証書と、ソルティーの出生登録書等の身分証明となる物だった。
これさえあればソルティー達が無駄な足止めをされる事も、謂われのない疑いを掛けられる心配もない。ニーニアニーの気遣いに、ソルティーは幾度も森を振り返りながらアジストラを目指した。
ニーニアニーのした事は、決して王として誉められた事ではない。しかし彼は自分に出来る最大の事を、自分の代わりに成し遂げようとするソルティーに報いる為に、王としてあるまじき行為に手を染めた。
ソルティーは、その気持ちに恥じる事のない答えを、自分自身の力で示すしかない。
それが長い時を、たった一人で後悔を背負いながら生き続けた、アストアの王に出来る証明なのだろう。
アジストラ公国の最東にあるラバサと言う街が、森から一番近い場所に在った。
森を歩き続けた所為もあるが、広大なハバリの東部から西部に場所を移し、その余りの違いに三人は目を疑った。
須臾と恒河沙が自分達の村を思い出した位に、街でありながら華やかさの欠片もない其処は、戦の爪痕も生々しい疲れ切った所だった。
「こりゃあ…まともな宿があるかなぁ?」
周囲を見渡しながら、須臾は何度も表情を歪ませた。
東部では当たり前だった石畳はなく、剥き出しの地面に座り込んで動かない子供の姿が雄弁に何かを語りかけてくる。そんな気味の悪さ。そして自分達に向けられる幾つもの視線は、隙あらばと狙う者からや、物乞いの類。
やっと楽に眠る事が出来ると期待していただけに、この光景は想像していなかった。
「どうする?」
このままこの街に滞在すれば、敵に襲われる前に住人に襲われかねない。須臾は自分と同様に、別の意味でこの惨状に驚愕しているソルティーに耳打ちしてこれからを訪ねた。
「そうだな……」
そう言ってからソルティーは立ち止まって暫く考える事に専念し、周りをもう一度見渡した後で口を開いた。
「このまま次の街に進んでも良いが、其処が此処よりもましだと言う保証は無いかも知れない。こっちの詳しい地図も欲しいし、話も聞きたい。まずは話を聞けそうな場所を探して、それから決めないか?」
「んん〜まあ、それが妥当な所だね。でも、まともに話を聞いてくれる人が居るかなぁ」
「捜すしかないだろ……」
須臾の不安はソルティーも感じていた。
自分達にまとわりつく、余所者への敵対心と疑いの眼差し。何があったのかは知らないが、何があったのか想像は出来た。
――どうして自分達の世界すら危うい時に、人は戦を止められないんだ。
抑えられない憤りが心に過ぎる。
以前幕巌が語った様に、戦は人を変えてしまう。どんなにそれを拒もうと、死は人の心を感嘆に蝕んでしまうのだ。
「ねえ、あそこ酒場じゃない?」
須臾が少し前にある店の看板を指差し、其処が営業しているのを全員の目が確かめた。
「どうする? 他に捜してみる?」
「いや、取り敢えず彼処に入って、私達への反応を確かめてみよう」
今までと勝手が違うなら、まずは飛び込んでみるのが一番の近道と、ソルティーは成る可く警戒を表に出さないように酒場へと足を向けたが、それまで一言も口を挟まなかった恒河沙の一言に、緊張感も警戒心もソルティーと須臾の中から消え失せた。
作品名:刻の流狼第三部 刻の流狼編 作家名:へぐい