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刻の流狼第三部 刻の流狼編

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 けれどそれが見えない須臾は泣き続け、しかし、
「……僕は…僕は……」
 蹲る須臾の耳に、小さな声が聞こえた。
 不思議と暖かなその声は、須臾が顔を上げると、もっとはっきりと自分を呼ぶ声に聞こえた。
「…誰……」
 何かがまとわりつく感触を振り払い、その声が聞こえる場所に須臾は走り出した。
 誰かは判らない。けれど、自分が行かなければ直ぐにでも消えてしまいそうな小さな声に、須臾は懸命に辿り着こうとした。
「……お前なの?」
 須臾が辿り着いた其処は、小さな部屋の中だった。
 先刻までイェツリが居た場所に、その声の主は居た。
 小さな声は、言葉には程遠い声。でも、優しくて暖かで、心に染みわたってくる。
「呼んだよね、僕を呼んでくれたんだよね?」
 まだ言葉も判らない小さな体を抱き上げ、須臾は泣きながらその子の見せる微笑みを見つめた。
「ありがとう、僕の大切な弟」
 暖かな微笑みを返す須臾が赤ん坊を抱き締めた時、部屋は光に包まれた。





「やあああああっ!!」
 ジェリの放った光球を恒河沙は避ける動作も煩わしげに、大剣を盾にする事で飛散させ、そのまま次の光球を用意するジェリに突進した。
「クク……」
 それ程広さが無い為に、恒河沙の振りは、極力大きくならない様に気を付けられていたが、それでもどういう原理なのか、ジェリの体は恒河沙の大剣が当たる前にその場から姿を消す。
 そして別の場所へと現れたジェリは、直ぐさま手にした光球を恒河沙の背後に投げる。
「ぎっ!」
 光球を避けようとした恒河沙だったが、避ければソルティーの当たる思った瞬間、動けなかった肩口に光球の直撃を受けた。
 全身に痺れを伴う痛みが走り、そのまま恒河沙の膝が地面に着いた。
「クク…、面白い。愚かな人の行動は、本当に面白い」
 光球を両手に作り出し、ジェリは言葉をは裏腹に侮蔑の笑みを見せた。
「何時まで耐えられるか試してみようか?」
 大剣で体を支え、立ち上がろうとする恒河沙に二つの光球が放たれる。
 直線的に飛び込んできた光球を、恒河沙は振り返りながら、剣身で受け止める。が、その時には既に、ジェリの手からは次の光球が放たれていた。
「ーーーッ!!」
 腹と左足に命中し、恒河沙は大剣を地に深く突き刺しその場にまた膝を着いたが、今度はそう直ぐに立ち上がれる様子ではなかった。
 恒河沙がソルティーを庇わなければならないと知っているジェリは、恒河沙がその場から逃げを打てば、直ぐにソルティーへの攻撃を容赦なくする。そう考えると、恒河沙が下手な手を打つ事は出来ない。
 感覚の無くなりそうな指先に力を入れ直し、なんとか向こうの出方に隙が出来ないかと思う。
「実に楽しいが、あまり時間を取られると、思わぬ横槍が飛んで来るとも限らない。これで最後にしましょうか」
「ふざけんなっ!」
 ジェリは恒河沙の言葉など笑い飛ばし、腰の横に腕を広げ、その掌に先程とはまた別の、渦を巻く黒い力の球を両手に作り出す。
「これを防げるかな?」
「防いでやるさっ!」
「序でにほんとの横槍をくれてやるっ!!」





「貴方はもう助からない。でも、貴方なら多くの人の命、いえ、この世界を救う事が出来る」
 聞きたくなくて耳を塞いだソルティーに、声は尚も語りかける。
「お願い、力を貸して。私達の鍵となって」
 余りにも悲痛なその声に耳を澄ませば、もう二度と忘れる事の出来ない道へと引き戻されると心が警笛を鳴らす。
 何処へ逃げても聞こえる声に、ソルティーは耳を塞ぐしかなかった。
「もう嫌なんだ……。ここから出たら私はまた欲しくなる」
 漠然とした何か。
 それは言葉としては出てこなかったが、それを手に入れたくなる自分を、ソルティーは感じていた。
「失うのは嫌なんだ。望むのも、期待するのも、もう、嫌なんだ」
 期待して、絶望して、手に入れて、そして失う。
 繰り返す毎に臆病になっていく自分を知っていた。しかしその自分をどうする事も、変える事も出来ずに、ただ繰り返したくないと叫ぶだけだった。
「貴方にはまだ道がある。此処に居てはいけない」
「助ける事は出来ない。しかし、道は在る」
「私達に出来ぬ事。果たせぬ願いを代わりに」
 理不尽な言葉が連なる。
 ソルティーを見ていない声。
 力在るその声は、堅く心を閉ざしていなければ、容易にソルティーを操ろうとする。
「嫌だ……誰か助けて…」
 誰も居ない。誰も思い出せないのに、言葉が自然と口をつく。
「お願いだ。誰でも良いんだ……私を助けてくれ」
 心がそれを望んでいるからなのか、既にもう操られているからなのか。耳から手を放し、口を押さえ込んでも、自分の声は消えなかった。
「助けて…助けて……………助けて…ワァ……」
 訳も判らず、だがそれは自然と口をついた。
 そしてその名前とも言えない言葉を口にした時、闇の中に巨大な影が現れ、まるで打ち払われるように理不尽な声は消えた。
「我にとってソルティアス様が唯一無二の主。我の誇りはソルティアス様、貴方様お一人です」
「……ワァ」
 今までの声とは違う、包み込む声にソルティーは影に向かって手を伸ばす。
 しかしソルティーの夢はいつも、何も掴み取れずに終わる悪夢だ。
「我は一足先に彼の国に赴き、ソルティアス様のお越しを一日千秋の思いでお待ちして居りますぞ」
 頼もしく響く声を最後に影は消えた。
「ワァ…行かないで……」
 いつの間にか子供の姿になっていたソルティーの手が、震えながら握り締められる。
 彼と共に行けば良かったのか。
 それとも彼に残って欲しかったのか。
 そのどちらとしても、彼に自分の傍に居て欲しかった事には間違いはない。
「どうして……」
 と絶望の中で思う。
 だが同時に、だからこそ、と浮かぶ。
 何故かはソルティーにも判らない。しかし確実に闇は色を変え、その事に気付いた時に、また新たな声が聞こえた。
「私の願いはソルティアス様が微笑んで下さる事」
「………アルス…」
「他は何も……」
 子供のソルティーを頭上から光の粒が降り注ぐ。
「泣かないで、もうソルティアス様は子供ではないのだから」
 光の中から聞こえるその声が、もう一度ソルティーの姿を変える。十八だった頃の姿に。
「愛しています……ずっと……」
「アルスティーナ…私もだよ……」
 光の降りしきる中で、ソルティーは立ち上がった。
 両手を広げ、その光の粒にその身を晒し、彼女から与えられた優しい思い出を体で受け止める。
 そして、いつの間にか目の前に現れた影に気付いた時に、光りは闇を薄れさせながら消えていった。
「ソルティー……」
 目線より少し低い影が、そう言いながら手を伸ばす。
 影の指がソルティーの腕を掴み、影の頭が突然胸の辺りにまで下がる。過去ではなく、今あるべき姿を示すように。
「ソルティー、帰ろ」
 そう言って自分を見上げた彼から影だけが消えた。
 柔らかな髪に手を伸ばし、撫でるように乗せると、彼は嬉しそうに笑みを漏らした。
「帰ろ。あっちに俺居るから」
 もう一度そう言った彼にソルティーは頷くと、遙かな頭上を見上げた。
「ああ…帰ろう、お前が待っているから」
「うん!」