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刻の流狼第三部 刻の流狼編

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「ありがとう! お姉ちゃん大好き!」
 母親よりも暖かくて、優しい存在だった宮奈の首抱き付き、少年はありったけの喜びを彼女に示した。
 たとえ結局は父母の説得は無理だったとしても、味方は宮奈一人だけで充分だった。
 それだけで充分幸せと感じられる生活だった。
「……お姉ちゃん…」
 もう二度とは触れられない温もりにもう一度触れたくて、須臾は少年を抱き締める宮奈へと手を伸ばした。
 しかし触れたと思った瞬間掻き消えた。
「…えっ!」
 掴み損ねた拳を握り締める須臾の耳に、また別の声が聞こえ、周囲には記憶の底からさえも消してしまいたい風景に切り替わっていた。
「ーーーっ!!」
 調度品と言える家具は殆どなく、粗末なベッドに横たわる宮奈の姿。
 疲れ切り、そして息すらも止まろうとしている彼女の姿に、須臾は口を両手で押さえた。
 足が、手が、体中が止められない震えに襲われ、彼女の名前を呼びたいのに、歯の根まで震え耳にはガチガチと乾いた音だけが聞こえる。
「何が万能だっ! 何が英知だっ! お姉ちゃん一人助けられないくせにっ!!」
 扉一枚を挟んだ向こう側から、子供の怒号が聞こえる。
「須臾落ち着くんだ、宮奈の病は何をしても治らないんだ」
「嘘だっ! みんなで寄ってたかって姉ちゃん殺すつもりなんだっ、だから薬だって買ってくれないんだっ!」
 扉が勢いよく開き、五歳だった自分が宮奈の元に駆け寄る。
「お姉ちゃんしっかりして、元気になってよ。僕を一人にしないで」
 痩せ衰えた宮奈の手を握り締め、何度もそう言った。
 信じる事だけが子供の須臾に出来る方法だったから、何度でも、声が嗄れるまでそう願い続けた。
「あの子はどうやったて助かりゃしないよ。でもまあこれで須臾も宮奈に甘え無くて済むんだ、これからは身を入れて呪術を覚えて貰えるよ」
 扉越しに聞こえる嗄れた呪いの言葉。
「宮奈には素質も器量も無かったが、その点須臾は、あたしの血を色濃く継いでくれた。後継者としては申し分ない。宮奈が死んでくれて助かるよ、甘えてばかりじゃあ、とてもあたしの後継者には相応しくないからね」
 産まれたと時から自分の道に須臾を乗せる祖母と、その祖母の言葉に言いなりだった父と母。
 優しさも思い遣りも無い家族。人としての言葉を、気持ちを持っていたのは、宮奈一人だけだったと言うのに、彼等は娘としても孫としても彼女を扱っていなかった。
「お姉ちゃん死なないで。元気になってよ」
 日毎に消えていく温もりを繋ぎ止めたくて、ずっと手を繋いでいた。
 弱っていく宮奈が精一杯の微笑みを見せても、須臾は涙を堪えるだけで終わった。
 どうして誰も助けてくれないのか、どうして自分の願いは叶えて貰えないのか。こんなに一生懸命に心の底から祈っているのに、どうして一番大事な者を失わなくてはならないのか。
 それなのに、
「ああ、やっと死んでくれたよ」
 祖母の何気ない呟きが心の何かを踏みにじった。





「……………? なんだ此処はぁ?」
 どうしてだか自分は水の中に居るような気がする。と、恒河沙は辺りを見回したが、何故か全く苦しくない。
 時々周りの水がゆらゆらして綺麗だなぁと、それに見入っていたけど、直ぐに其処から目を離した。
「帰んなきゃ」
 そう思って、取り敢えずは水から出ようと上を見上げた。
「駄目よ恒河沙」
 聞き慣れない女性の声に恒河沙は目を向ける。
「誰だ?」
 見慣れない女性が恒河沙に微笑み掛け、ゆっくりと近付いてくる。
 肩までの髪を後ろで束ね、質素な服を着ていたが、優しそうで綺麗だと思った。
「恒河沙、やっと会えたわね」
「だから誰なんだよお前は」
 目の前まで来た女性に、恒河沙は苛ついた声を出す。
 どうしてだかこの綺麗な女性を見ていると、胸の中がもやもやして来るのだ。こういう感じを恒河沙は大嫌いだった。
「どうしたの恒河沙? 私のこと覚えていないの?」
「………知らねぇ」
「どうして、こんなに貴方を愛しているのに」
「なんだそれ?」
 疑問を募らせる恒河沙の背中に女性の腕が回り、優しく髪を撫でる。
 何故かは判らないが、こみ上げる何かがある。判らないから苛立ちが増す。
「待っていたのよ、恒河沙が来るのをずっと」
 優しく微笑む女性が恒河沙の髪を撫でる度に、二人の体は水中深くに沈んでいく。
「だから、私と一緒に……」
 女性の指が髪を掴む。二度と離さないように。
「嫌だね」
 はっきりと恒河沙は口にし、両手で力一杯女性の胸を押し離す。
「恒河沙……どうして?」
 傷付いた表情を浮かべる女性に、恒河沙はいつの間にか手にしていた大剣を、躊躇うことなく突きつけた。
「俺、ソルティーの所に帰るんだよ。邪魔すんなよお前」
「どうして、こんなに貴方を大切に想っている私に、どうしてそんな物騒な物を……」
 綺麗で優しそうで、そして悲しみを湛えた表情が酷く気に障る。
「どうして?」
 両手を広げながらまた近付いてくる女性を、恒河沙は睨み付け、大剣を持つ手に力を入れた。
「殺すの? その剣で私を斬るの? 私は貴方の……」
「うるせぇんだよお前」
 哀しみを露わにする女性に向かって、恒河沙は冷たい笑みを浮かべ、何の疑問もなく女性に大剣を突き刺した。
「こう…が……」
「お前って邪魔」
 一寸した事にふてくされた子供の様な、そんな口先だけの言葉を崩れる女性に吐き捨てる。
 邪魔は要らない。要らない物は消せばいい。
 少なくとも此処にそれをして怒る人は居ない。
 ソルティーは居ない。
 それさえ判っていれば充分だった。
 恒河沙が大剣を女性の体から抜くのと同時に、水の世界は一瞬にして恒河沙の前から消えた。
「さってと、ソルティーの所に帰んなきゃ」
 何もなかった様に背伸びをしながら言葉にして、恒河沙は歩き出した。自分が居たい場所に向かって。





 暗黒と闇の世界が広がる。
 どうしても自分を思い出せないソルティーの前には、三人の女性が居る。
 一人は若く、まだ少女の面影を残していた。残る二人は同じ顔、同じ姿を持つ美しい女性。
 ソルティーの横には男が三人。一人は温厚そうな青年の姿をし、二人は同じ顔と同じ姿で鋼の肉体を持つ男性。
 そして後ろにもまた男が三人。一人は鋭く冴えた顔持つ青年で、二人は同じ顔と同じ姿で高い知性を感じさせる男性。
「貴方のは選択の自由が在る」
 そう始めに言ったのは誰なのか。
「そう、君には選ぶ権利が在る」
「死か、鍵と成るか」
「二つの道が用意されている」
「何れを選ぶも君次第だ」
 直接音を成さない為か、誰が話しているのかソルティーには判らなかった。
「二つの道?」
 疑問の言葉を口にしても、それは音となって響きはしなかった。
「死か鍵か」
「狂気か正気か」
「抜け殻か傀儡か」
「逃避か復讐か」
 突き付けられるのは二つの選択だけだった。
 他の道は用意されて居らず、それを説明する言葉も用意されては居なかった。
「道は二つ」
「時間は無い」
「思考せよ」
「答えを出せ」
 重なる様に、連続する様に言葉がソルティーを取り巻く。
 考える事も許さない、威圧する声に怯える。