刻の流狼第三部 刻の流狼編
愛されたい。
たった一度でもその手を差し伸べてくれたなら、この恐怖は無かったかも知れない。
「ぼくは、ぼくはふつうのこどもでいたかったんだ」
空を飛べる事が出来たなら、直ぐにでも大空に舞い上がり、二度と帰りはしなかった。
子供の手足では逃げる事も出来ず、逃げられる歳になる頃には、周囲の期待に押し潰されていた。
逃げ出したい。
遠くに行きたい。
そして泣き出した子供の足に、黒い影が忍び寄る。
須臾の右手に光が宿る。
ソルティーの眠る場所から少し離れた所を、イニスフィスに案内してもらって一端帰ってもらった。
右手の上には、二つの封呪石と宝玉が一つ。風と命の理の力が封じられた二つの封呪石の力を宝玉で増幅させ、広範囲までその光力が及ぶ様にする為だ。
「“我が声は彼方までその身を飛ばし、我が腕に道筋を呼べ。天地精霊の理の導きに従い、清浄を正常と成す我が眼へ宿れ”」
力在る須臾の言葉に、封呪石が閃光を発して砕け散る。
光は直ぐに消滅し、須臾は満足そうに瞼を降ろした。
探知の呪法。呪法の範囲内であれば、どんなに小さな物でも見付けられる。但し、術者の体を介する為に、呪術中は無防備になるので、余程の安全圏内でしか用いられる事はない。
それを須臾は敢えて使用した。
他に方法が無いと焦りは確かにあった。
このまま依頼人を殺されては幕巌に申し訳が立たないし、傭兵として信用されていたと自負がある。自分自身の誇りに傷がつくからだ。
相手が強ければ強い程、やる気がでる恒河沙の様にはなれないが、何処かで自分達の事を嘲笑っている奴が居ると思うと、腸が煮えくり返る思いがする。
閉じた瞼の奥に、薄暗い樹木の乱立が映し出され、微かな変化の見られる場所を次々と須臾の前に映していった。
――違う、此処も違う。此処でもない。
宝玉を使用した所為で見渡せる場所は広がったが、それだけ長時間続けなければならない苦痛はある。
苛立ちを感じながら、須臾は早さを増した風景を一つ一つを丹念に観察し、そして、異質なモノを見つけだした。
――お前か。
その姿は長身だが病的に細い。
長い耳が腰の辺りまである白い髪から飛び出し、その者の異質さを増している。
――誰なんだ……。
もう少しでその者の顔がはっきりすると思った時、須臾の方をその者は振り向いた。
見える筈もない、その“場”をはっきりと見た。
そして、薄気味の悪い笑みを“須臾に向かって”見せた。
――げっ!!
いきなり須臾の目に衝撃が走り、もう一歩遅くでも呪法を強引に解除しなければ、彼の目は完全に破壊されていた。
「くそっ! なめやがってっ!」
須臾は素早く別の封呪石を袋から取り出し、右手に先刻と同様に宝玉と一緒に乗せた。
「“我が呼びかけは試練の礎、我が指先に宿りし命名に架け、我が同胞の盾と成れ”」
言葉と共に砕け散った封呪石の欠片を払い、続けざまに次の封呪石を乗せる。
「“七釜の炎に宿りし四支柱の石よ、我が言霊に応え、その身一度の楔と成れ”」
――畜生っ畜生っ畜生っっ!!
「イニスフィスッ! イニスフィスッ! ああもうっ、テレンでも良いから、早く迎えに来てっっ!!」
使わなかった封呪石の中から、これから使えそうな物を物色し、それをズボンのポケットに詰め込みながら、須臾は大声を張り上げた。
「イーーニスフィスッッ!!!」
――冗談じゃないよっ、なんなんだよあれっ。ソルティー、あれがあんたの敵なのか?!
とても人のものとは思えない邪悪な顔が脳裏に過ぎり、須臾は自然と背筋が冷たくなるのを感じた。
人では決してああまで恐ろしい形相を作れはしない。生気の無い中で、爛々と輝く瞳の禍々しさは、明らかに別の何かを感じさせた。
「ど、どうしたんだ?!」
須臾の叫びが届いたのか、焦った顔付きで現れたイニスフィスに、須臾はほんの少し安心した。もしこの場に取り残されでもしたら、そう考えただけでもぞっとする。
「イニスフィス、敵が居た! 早く僕をソルティーの所にっ!」
「わっ、判った」
須臾の焦りが尋常ではなかった為に、イニスフィスまで緊張して元の場所へと駆け戻った。
その背中に向かって誰かの嘲笑が聞こえる様な気がしたが、須臾は決して振り返りはしなかった。
声が聞こえる。
鮮明に聞こえる声は、呪いの言葉。
それが随分と前に自分が口にした言葉だと、ソルティーは理解していた。
自分に対して、神に対しての、酷く醜い呪いの言葉。
自分が吐き出した言葉が、何れ自分に跳ね返る言葉になると気付いたのは、どれ程昔の事だっただろうか。
あやふやな記憶を辿る余裕は今のソルティーには無く、ただ聞こえる声を他人の声の様に聞いていた。
あれからどれだけの時が流れたのか判らない。もしかすると、一時も流れていないかも知れない。
いつの間にか歩いていた。歩き続け、訳の分からぬ言葉を吐き続けていた。
ソルティーの目の前には闇しか存在していなかった。
何処まで歩いても終わりのない場所で、何時になれば終わるのか。はっきりしない疑問が心を揺り動かす。
どうして歩き続ける体が疲れを知らないのか。
空腹感も、喉の渇きも訪れず、ただ歩き続ける事に、何の意味があるのだろうか。
それでも歩き続けるのは、もしかすると次の一歩で終わりが来るかも知れないからだ。
ずっとこのままか、それとも次の瞬間には。
その終わりが一体何を意味しているのか、それはソルティーには判らない。しかし疑問だけは矢継ぎ早に浮かんでは消えていくのだ。
心の何処からか、このままでは何時か気が狂うかも知れないと、囁きが漏れる。
いや、もう既に狂っているのかも知れないとも感じる。
狂っているから何も感じないのか。
それとも、もう死んでいるのか。
闇の中では自分の体も見えないと思っているのが、抑もの間違いではないのか。
そんな考えても答えの浮かばない言葉が、頭の中で蜷局を巻く。
ならどうして歩いているのかと、誰かに問いかけたかった。
足を止めればいいと思いながらも、ソルティーの足は自分の意思に従わない。
立ち止まり、そしてゆっくりと死の自覚を持てば、何かが変わるかもと思う。しかしどうしても足は前へと動き続けた。
何故歩き続けるのかと、いつの間にかそれだけが頭を支配する。
こうして歩き続けている事に、何の意味も見出せないのに、体だけが動き続ける。
長い時間、在るか無いかも判らない長い時間を経て、ソルティーは突如別の疑問を心に浮かべた。
どうして此処に居るんだ、と。
気が付けば、自分が何故此処に居るのか判らなくなっていた。
なんの為に此処へ来たのかも思い出せない。
いや、どうやって此処に来たかすら理解出来ないのだ。
闇だけが支配する此処に、ただ一人歩く理由がソルティーには見つからない。
突然突き付けられた疑問に体中がざわめく。
何かが有った筈だと思う。
何かが有った、だから自分の足は、止まる事無く前に進むのを止められないと、何処かで自覚する何かが有った。
どうしてなのか、何が有ったのか、これからどうなるのか。
作品名:刻の流狼第三部 刻の流狼編 作家名:へぐい