刻の流狼第三部 刻の流狼編
先刻まで確かに見張りをしていた筈なのに、気が付けば俯せに倒れているし、どうしてか見覚えのない所に居た。
――なんだぁ??
起きあがりながら周りを見回しても、何処にも誰の気配もない。
自分と一緒に転がっていた大剣を持ち上げ、再度周りを確認すると、側に泉があり、形状から自分達が居た場所から反対の方に居る事はなんとなく理解できたが、今自分が此処にいる理由が判らない。
記憶は、ミルナリスに話しかけられる直前で終わっているのだ。
うたた寝をしてしまっただけなら納得も出来るが、寝ながら此処まで来たのかとは、幾ら何でも想像できない。
暫く自分の置かれた状況に頭を抱えたが、何を考えても納得できる理由が恒河沙に考えつく筈もないし、自分自身の知能指数は彼自身も理解していた。
「まっ、しゃぁないか」
考えて答えの出ない事を何時までも悩んでいると、いつの間にか何に悩んでいるのか判らなくなって考えるの止める事になった。
気を取り直して帰る事にした。
思ったより距離のある泉の周りを歩きながら、
――ソルティー起きてるのかな。
と、交代の時間が過ぎている事に肩を落とした。
自分の所為ではないとは思っても、あの場を離れていた事は事実だ。言い訳しようにも理由が思いつかないんだから、言い訳も思いつかない。
「……はぁ……ん?」
泉に向かって大きな溜息を吐き出し、ふと何かの気配でその方向に視線を飛ばす。
泉を挟んで向こう側、見覚えのある人物とそうでない人物。
「……ルティ…」
そう思った瞬間、遠い筈の向こう岸の彼等の姿だけが、はっきりと恒河沙には映し出された。
知らない人物が女性であるのはその姿から判る。ただ、何を話しているのかは恒河沙まで届かない。
呆然と彼等を見つめ、そしてソルティーが彼女の背中に腕を回した瞬間、体は元来た道を駆け足で戻っていた。
“瑞姫、終わったわよ”
“瑞姫!”
ソルティーの治療を終わらせた声が、にやけた顔を露わにする瑞姫に話しかけるまでに、それ程時間は要しなかった。
殆ど一瞬の出来事だった筈だ。
しかし、役得とばかりに瑞姫はその声を無視し続けた。
“瑞姫っ!! いい加減にしなさいっ!”
声達は瑞姫の思考一杯の声を張り上げる。
“この、馬鹿娘っ!!”
「誰が馬鹿ですってっ!!」
「え?」
突然の瑞姫の爆発にソルティーの腕が簡単に離れ、瑞姫はしまったとばかりに口を押さえる。
「ああ、見えるようになったみたいだね、ありがとう瑞姫」
自分の手を見つめ、色は存在しなくてもはっきりしている事に、素直に礼を言う。
「あ、ううん、気にしないで。……ったく、良い気分だったのにぃ」
「ん?」
「あははは……なんでもない、なんでも」
邪な独り言を、慌てて手を振って掻き消し、瑞姫は作り笑いを浮かべた。
――あとで見てなさいよっ!
“ほほほほ、出来るものならしてみなさい”
挑発する声に瑞姫は肩を震わせ、頭に血が上るのを感じた。
肉体を持たない相手、しかも自分の中にしか居ない者を、殴る事も蹴る事も不可能だ。それを相手も自分もよく理解しているから、瑞姫の怒りの発散場所が慧獅達に遠慮なく向けられる。
「瑞姫?」
「なんでもないから気にしないで。ちょっと、“オールドミス”共の陰口に苛立っただけ」
“何の事?”
“さあ?”
瑞姫の使う言葉を翻訳しきれない声は、瑞姫の悪口に気が付かなかった。
「さて、他にはない? なんでも良いよ」
「いや、今ので充分だよ。本当にありがとう、無理をさせて済まなかった」
「ソルティー……」
“ごめんなさい”
“ありがとう”
その声からの言葉を瑞姫は伝えなかった。
まだ終わった訳ではないから。
「……じゃあ、あたし帰るね。また何時、あの呆け老人が動くか判らないし」
「ああ、大変だろうけど、頑張って」
「ううん、ソルティーの方が大変。だから、絶対無理しないで……頑張って」
本当はそんな事は言いたくなかった。
心の底から逃げて欲しかった。
言ってしまいそうな言葉を、零れそうな涙を、唇を噛み締める事で堪え、瑞姫は一生懸命に笑顔を作りだした。
「じゃあ、ほんとに帰るね」
「ああ」
手を振りながら消えていく瑞姫を、ソルティーも笑顔で送る。
彼女が何を言いたいのか、何故言えないのかも知っているから、彼女の笑顔だけを見る事にした。
「さてと、起こしに行くか」
まさかつい先刻、対岸で恒河沙が自分達を見ていたとは知らず、ソルティーは瑞姫が指さした方へと歩き出した。
自分が倒れていた場所まで戻った恒河沙は、膝を抱える様にその場に座り込んだ。
見てはいけないものを見た感じで一杯になって、どうしてあの場から逃げてしまったのか、どうして胸が苦しいのか、まだそれには気が付いていない。
相手が誰で、どう言った人物なのかよりも、抱き締めていた事が何より辛い。
「……なんなんだよ」
色々な事が頭をぐるぐると回って、つかみ所のない感情が湧いては消えていく。
戻らなくてはならないのに、どうしても体が言うことを聞いてくれない。
「気持ち悪いよ」
前に一度だけ同じ様な気分を味わった様な気がするけど、それが何処だったか思い出せなかった。ミルナリスがソルティーに恋人宣言をした時に感じた、瞬間的に彼女を嫌った感覚など恒河沙が思いつく筈もない。
「ソルティ……」
自覚できない感情が勝手に動き出している。そんな感覚。
大事な物を奪われてしまった様な虚無感と苛立ち。
自分の力ではどうしようもないと判っているけど、それを誰かに解決して貰えるとも思えなかった。
「ソルティー」
誰かに助けて欲しかったけど、浮かんでくるのは悩みを造った本人だけだ。
「……恒河沙?」
「?!」
「良かった」
何が良かったのかは判らないが、兎に角顔を上げた恒河沙の前にソルティーは歩き寄ってきた。
「どうしてこんな所に居るんだ?」
側まで来て隣にしゃがむソルティーの顔をまともに見られず、恒河沙は顔を逸らした。
「ん?」
「……わかんない。起きたら……此処だった」
普段と明らかに違う恒河沙の雰囲気を疑問に思うが、自分の質問に対しての言葉に嘘は感じられなかった。ただ、何かを隠しているのは伝わってくる。
「恒河沙?」
逸らされた表情を見ようと、体を少しずらすと、ずらしただけ恒河沙が動いてしまう。
――何か怒らす事をしたかな?
そんな記憶は毛頭ないが、何もなくて恒河沙がこんな態度を自分にする筈がなかった。
「……私が何かしたか?」
機嫌を取るにも理由が判らなくては取りようがない。
なんとかこの状態を打破しようと、次の質問を口にしようとしたとき、漸く恒河沙が口を開いたが、その言葉はソルティーを固まらせるには充分だった。
「先刻の女誰だよ」
まるで浮気現場を目撃した妻が夫に詰め寄る様な言葉に、ソルティーは思考が停止した。
「誰だよっ!」
勢いをつけてソルティーに顔を向けた恒河沙の目は、泣く一歩手前だった。
「見…見たのか?」
「見たよ」
ソルティーの背中を薄ら寒い風が吹き抜けた。
――しまった、彼女の気配が大きすぎて、恒河沙の気配が掴めなかった。
作品名:刻の流狼第三部 刻の流狼編 作家名:へぐい