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刻の流狼第三部 刻の流狼編

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「須臾の言った通り、此方もある意味被害者だ。私の説明を聞くか聞かないかは、君に任せる」
 恒河沙が今目を覚まさないように、彼の頭を自分の膝の上に乗せ、成る可くテレンを逆撫でしない様に気を使い、事の判断を相手に渡す。
 一方的言われる事を良しとしないテレンには、それは効果があった。
「……納得できる話なんだろうな?」
「断言はしない。操られていた意識があるなら、納得して貰えると信じているが」
「操られていた?」
「ああ」
 取り敢えず聞く耳を持ちだしたテレンに、ソルティーはこの二十日余りの事を、要所要所をかい摘んで話をした。
 何に対しても腹立たしく思い、事有る毎に口論をしてしまっていた事。そして漸く姿を現した首謀者が、須臾の体を支配した事。但し、自分が狙われていた事は伏せての話だったが。
「本当かどうかは眉唾だが……、確かにイニスフィスが、あんな言い方をするはずがないな」
 ソルティーの話に、自分では当たり前に感じていたこれまでの諍いが、今になって普通ではなかった事にやっとテレンも気付いた。
「確かに此処を離れたのは私の落ち度だ、それは認める。恒河沙の行き過ぎた行動も、彼に怪我をさせたのも、申し訳なかったと思う。恒河沙を雇っているのは私だ、責任は総て私にある。済まなかった」
 その場でだが頭を下げたソルティーに、怒りで前が見えなくなっていた事に気付かされたテレンは何も言えなかった。
 ばつの悪くなった顔を引っ提げ、ソルティーが頭を上げるのを黙って待ったが、次に彼が顔を向けた時に、テレンの背筋には冷たいものが走った。
 先刻とは別人の様な、冷たい視線でテレンを見つめる。
「しかし、恒河沙に対して言った事は謝って欲しい」
「なっ……!」
 気圧されそうになるのを堪えてみたが、言い返す言葉が喉に詰まって出てこない。
「確かに君達が森に対して精通し、私達が死んだと判断するのも間違ってはいない。しかし、この子を含め、森の外の者総ては森を知らない。真実を知る事も出来ない者を軽んずるのは、愚行だとは思えないのか」
 聞こえる言葉と、見える様子の違いに、ソルティーが何かに対して怒りを抱えていると判る。
 恒河沙に対して感じた恐れとはまた別の、強迫観念に近い感情がテレンを襲い、謝罪などは真っ平だと反論したくても、体は石の様に固まって身動きも取れない。
 テレンが人間を、外の者を見るのは初めてだった。
 それまでずっと、アスタート以外の人は無知無徳な、下劣な生き物だと思っていた。
 だから彼等は森に許されぬのだと、信じて疑わなかった。
 しかし今、目の前に居る人間は……。
「誰もが総てを見通せる筈がない。人を見下すのだけの生き方は楽かも知れないが、それは本当に君達の主が望んだ事だと思っているのか。何の為にウォスマナスが人を森から遠ざけたのか、それは君達アスタートが一番理解していた筈じゃなかったのか。……少なくとも、僅かな希望も努力をする前に捨てる事を、ウォスマナスは望んではいない」
「……あんた、一体何者なんだ」
 ソルティーの話にテレンは驚愕し、視線を逸らし笑みを見せる彼に息を飲んだ。
 ソルティーの言う様に、今やアスタートしか知らない事実を、間違えた解釈も無しに口にし、まるで自分達の主本人と話をした事が有るような口振りに、他に言葉が浮かんでこなかった。
「ニーニアニーの古い友人だ」
「ニーニアニー様の」
「そう、古い、古い。もし、疑問があるなら彼に直接聞いてみたら良い、面白い話が聞けるかも知れないから。私は口止めされているから話す事は出来ないがね」
 視線の先を眠り続ける恒河沙に移したソルティーの目から、先刻までの冷たさは消え、代わりに見守る優しさが有った。
「私の話はこれで終わりだ。これから先案内を続けるのも、城に引き返すのも君達の勝手だ。こんな事があったんだ、無理に引き留める訳にはいかないだろうし」
「それで、あんた達は……」
「今更城に引き返す余裕も、新しい案内人を待つ時間も無い。君達が帰るなら仕方ない、悪いが暫くの間精霊の覚醒を促す」
「……なんて事を考えてんだあんたは」
 殆ど脅迫紛いの言葉に、テレンの両手は自然と頭を抱え込んだ。
 決めるのはテレンだと言いながら、逃げ道を用意しないソルティーの言葉に、完全にお手上げとなった。
「判った、案内は俺達が続ける。但し、イニスフィスの体の調子だけは考慮してくれ」
 言い負かされた口惜しさは残るが、相手の方が一枚も二枚も上だったとテレンは引き下がり、ソルティーはそれに満足そうに頷いた。
「それは勿論。此方も疲労を抱えているんだ、一日位は様子を見よう」
 それ以上は待たないと宣言する彼に、テレンは文句を言いたかったが、結局は言えなかった。
 恐かったのだ。
 恒河沙を見ている時以外は全く笑わない、彼の冷たい瞳が。



 紫翠大陸のとある国のとある街のまたまたとある山の中、人気はもとより付近に生物の気配すらない崖の上に、大きな屋敷が建っている。
 かなりの広さと無数の部屋を持つ其処に、晃司が現れたのは丁度ソルティー達が森を再出発した頃だった。
「慧獅っ大変だっ! ………っんげっっ!!」
 屋敷の持ち主は慧獅だったが、晃司は勝手知ったる他人の家状態で、何時も通り彼の一番お気に入りの部屋に突然姿を現し、現したままの姿で硬直した。
「…………すまん」
 長い沈黙の後小さく口にした晃司は、首から耳まで真っ赤になっていた。
「何の用だ」
 色調は慧獅の趣味で落ち着いてはいるが、かなり高価だと思われる豪華且つ広々としたベッドに、慧獅が何も身に着けず縁に座って、焦りまくっている晃司に話かける。
 非常に不機嫌そうだったが。
 晃司が現れるその時まで性交渉をしていたのだから、それは仕方のない事だ。
 その相手が慧獅と同じ性を持つ少年でなければ、問題はなかったのだが……。
「えっ…あ……その……」
 しどろもどろに狼狽える晃司の格好は、まだ現れたままの状態だ。
「ん? ああ、そうか。御免、急用が出来たみたいだ、少し席を外していてくれないか」
 後ろを振り返り、まだ息の荒い少年に語りかける。
「途中で放り出して悪いな。また後で可愛がってあげるから」
「は…はい、慧獅様」
 辛そうな体を起こしながらも、少年は嫌そうな顔一つせずにシャツを羽織ると、晃司に一度会釈をして奥の部屋に消えていった。
「で? 大変な事って何だ?」
「へっ? あっ! そうだっ、瑞姫が消えたっ!!」
「消えた?」
 瑞姫の名前が出た途端、慧獅の表情も強張った。
「連絡とろうとしたんだけど、どこ捜しても居ないんだよ。あいつ気配完全に消してんだ」
 やっと体の硬直を解いた晃司は、身振り手振りを交えながら、慧獅に自分の焦りを伝えようとした。
「あいつまた一人でなんかするつもりなんだ」
「だろうな」
「だろうなって、何だよその言い方」
「今に始まった事じゃないだろ。第一、瑞姫がそうしたら俺達が捜せる筈がないだろ。あいつが俺達の中で、一番力が有る事を忘れた訳じゃないだろ」
 乱れた髪を掻き上げ、荒れそうになる自分の口調を何とか整える。