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刻の流狼第三部 刻の流狼編

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episode.19


 妖魔が歴史の表舞台に現れた事実は、嘗て一度も無いとされている。
 それ故に、彼等が何故この世界に存在しているのか、何の為に現れるのか、その一切が謎とされ、彼等に関わってしまった者は不運とされていた。
 だが歴史の陰に潜む妖魔の存在を、世の人々は必ず肯定する。
 そう、彼等は在るべき者。夜の闇に隠れ、物陰に隠れ、世界中のありとあらゆる影に潜みながら、虎視眈々と人々の隙を狙っている。
 際限なく溢れ続ける人の欲望を狩る為に……。

 * * * *


 森の中をひた走る須臾の姿は、本来の彼が持つ洗練された立ち振る舞いを、見事に腐食させる見苦しさだった。
 何度も木の根本に足を取られては、蹌踉めきながらまた走るのを再開する。それもその筈、この体は“彼”の物ではない。“彼”に抑もの体があったとしても、今のこの体はつい今し方手に入れたばかりである。動かせるからと言っても、完全な自由さはまだ無理だろう。
 しかし今の“彼”を焦らせているのは、また別の問題だ。
――どうしてだ、どうしてだ、どうしてだっ!!
 背後に感じる迫り来る者からの無言の圧力が、そうさせている。
 妖魔に恐怖を感じる心が有ってはならない。それを人に与える存在は、“自分達”だけに許されているはずだ。
 だがもうすぐソレは来る。息も切らせず、静かに距離を縮め、ソレは自分に脅威を与えるだろう。
――私の計画は万全だった筈だ。
 その万全な計画は脆くも崩れ去り、あまつさえ「間抜け」と評価された。
 当たり前の話であるが、万全な計画は万全でなければならない。
 よって即ち、“彼”の計画は万全ではなかった。それどころか始められた時点で気付かれてしまうような、底の浅い奸計に過ぎなかった。
 もう既に“彼”の背中を捉えている者に言わせれば、方向性は間違ってはいなかったが、考えが足りない浅知恵だ。
――どうすればいい、どうすれば。……!
 またもや蹴躓いた拍子に何か名案が浮かんだらしく、体勢を立て直すと“彼”は走るのを止めて後ろを振り返った。
 その表情は、勝ち誇った顔付きだった。
「もうこの辺で良いだろう。邪魔者が入る事もないだろうからな」
 景気の良い言葉に高らかな笑い声を混ぜ、“彼”は目の前で立ち止まったソルティーに向けて、真っ直ぐに指を差した。
 確かに狙いがソルティーだけであるなら、あの場で騒げば彼の仲間が目を覚ます。一応は道理に則った説明ではあるが、それもソルティーに言わせれば“彼”の浅慮さを表していた。
 要するに“彼”は、複数の者を一度に相手には出来ず、操る能力にも限度がある。結局は、仲違いをさせる位が限界の、妖魔としては小者なのだ。
――須臾の体を選んだ所がまた間抜けだ。
 もしも自分か須臾自身がこの計画を行っていたら、間違いなくイニスフィスかテレンを使う。“彼”の様に決して姿を現さず、二人を完全に仲違いさせ殺し合いにまで発展させるか、自分達を置き去りにするようにし向けるだろう。その後残された一人ずつを、個別に引き離していく。
 時間は掛かるがそちらの方が確実に“ソルティー”を孤立させられ、精神的な苦痛さえも先に与えられる。精神的にも影響を与えられるなら、須臾の体を奪わずに、攻撃性を植え付けるだけで良い。仲違いから対立させ、戦わせれば運が良ければそれで片が付く。
 そんな簡単な事さえもせずに、何より奪った体が須臾だ。
――それが一番の失敗だ。
 安っぽい挑発の笑みは、確かに須臾に似合っている。だがその表情よりももっと癪に障る微笑みを、本来の彼は浮かべてしまえるのだ。
 今までに何度も感じた癪に障った記憶を思い出しながら、ソルティーは無言でスッと剣を抜いた。
「おや? この体は君のお仲間じゃないのか? そんな物騒な物でどうするつもりだ?」
 右手を自分の胸に当て、自分の立て直した計画に笑みを漏らす。
――仲間を躊躇わずに殺せる筈がない。それにこの体がどんな事になろうが、私には痛みすらないのだからな。
 どんなに強い者であっても、心の隙を消し去る事は不可能だ。
 家族、仲間、恋人。その関係がどうであれ、切っても切れない人と人の繋がりが、必ず心に隙間を作り出す。
 人としての弱さを知り尽くしている“彼”には判る。どんなにソルティーが強気に振る舞おうと、仲間をそう簡単に斬り捨てる事は出来ず、もし出来たとしても苦しみながらの決断をする事を。
 そうして勝手に開けられた心の隙間に、自分が入り込めば良いだけだ。
 それが普通の人の弱さなのだから。
 だが聞こえてきたのは、喉を引きつらせるような笑いと、冷たい声だった。
「お仲間? それはどういう了見から来た台詞だ。金で雇った傭兵を、仲間だと言い切られるのは納得出来ない」
「何だと?」
 ニーニアニーが用意してくれた案内二人ならば、容易に斬り捨てる事は出来ない。だが須臾は自分で雇った者でしかない。
 契約が成されている状態では、須臾の命はソルティーの物なのだ。
 しかしソルティーには、それ以上の理由があった。
「それに、私はその体の持ち主に、並々ならない恨みがある。何かにつけ恒河沙を引き合いに出し、しかも最近は面倒まで見さされる! 雇い主の私がだ!」
「え……いや……だから仲間として」
「仲間だったら何をしても良いのか?! ――ああそうだ、仲間だと思っていたから我慢した。財布が無くなっても、知らないふりして探したり、使い道も書かれていない請求書を渡されても支払い、お前一人が女達と楽しんでも文句も言わなかった!」
「いやそれは私じゃ……」
「ああそうだった、お前ハーパーが居る時を選んでいたな? 彼の前で誘いを断るしか出来ない私を、陰で笑っていたんだろ! それなのに私は、お前がさんざん遊んだツケを、わざわざ色町まで払いに行っていたんだっ!! 雇い主のっ私がだっっ!! ――ハァ、もう充分だ。我慢にも限度がある。お前を此処で殺しておけば、これからどれだけ楽になるか」
 ソルティーから吐き出される恨み辛みは、怒りさえも滲ませる程に、真に迫っていた。……いや、間違いなくそれらは本物の怒りだ。
 須臾に躙り寄る足は、しっかりと地面を踏み締め、剣を握る指には力が漲っている。怒りながらも顔には深い喜びを示すような笑みが浮かび、狩る者と狩られる者の立場は、あっという間に逆転した。
「本気かっ、こっ、この体を殺しても、私にはどうでも良い事なんだぞ」
 妖魔の操る須臾の体は、まるで押し出されるように後ろへと下がる。
「操られていたから、仕方なかったんだ。とでも言えば恒河沙も納得する。安心しろ、あの子を納得させる理由など幾らでも作れる。あの子は強い子だから、きっとお前の死を乗り越えてくれるさ」
 本音そのままの言葉に、躊躇いや悲しみは含まれていなかった。むしろ本気で、正当化出来る理由の上で須臾に斬りつけられると喜んでいた。
 須臾の雇い主を雇い主とは思えぬ態度や行状に、どれだけ頭を悩ませられてきたか数え切れない。抑も最初から須臾が謙虚に振る舞っていれば、ソルティーもこうは思わなかった筈なのだから、これは須臾の自業自得だった。
「残念な結果だが、致し方ない。悪いな須臾、私はこんな絶好の機会を逃したくないんだ」