刻の流狼第三部 刻の流狼編
場所が場所だけに火を焚く事はなかったが、交代に見張りをたてながら休息をするのはこれまで通りだ。ただ専ら今の状態では、ソルティーと恒河沙だけの役割となっていた。
「大丈夫だから、私が起こすまでお前は寝ていろ」
「……うん」
恒河沙が安心するように彼の髪を撫で、瞼を下ろすまでそれを続けた。
恒河沙が須臾達の様な状態にならなかっただけでも良かったと思うも、彼が一番疲労しているのは事実だろう。
振るわれそうになる暴力は避ける事は出来ても、辛辣な言葉は防ぎようもない。余程須臾の言動に日頃使わない神経をすり減らしているのか、落ち込む彼の姿は見るに耐えない程だ。
三人は日中に総ての力を使い尽くすのか、夜になると気を失ったように眠り続ける。
一度城に引き返した方が良いのかと何度も考えたが、ニーニアニーにこれ以上迷惑をかける事も躊躇われるし、今の原因がもう少しはっきりと分からない事には、城に帰った所で総てが解決するとも思えなかった。
――狙いははっきりとして居るのだが。
ソルティーの根本には、矢張り自分一人の力でどうにかしたいとある。
一人で動けば必ず動きがあると確信が出来ている。但し、須臾に近づけない恒河沙がこうして自分に寄り添って眠って居ると、軽々しくこの場を離れる事も出来ない。
二人だけの見張りを十日以上も続け、朝になればまた殺気立った険悪な一日が繰り返される。逃げ場所はなく、絶えず聞くに堪えない暴言を吐き出されては、いくら恒河沙であっても精神的な疲労だけでは納まらない。
自分には必要なくとも、普通の人間は眠りを必要とする。
眠らない事で余計な心配を与えるなら、極力「気が付かなかった」と嘘を言っても彼が眠る時間を多くする事が重要だった。
――それにしても、これは良い手段だ。
味方を、それも誰かの手によって操られている者に、危害を与える筈がない。
入念な計画を企てているか、単に臆病なだけなのか。
どちらにしてもこの策略は成功している。少なくとも全員が術中に嵌れば、完全に同士討ちに陥らせられるのだから。
――多分、恒河沙が正気を保っている事が読み違いだろうが、これ以上長引かせる訳にはいかない。隙を此方から造るしか無いか。
一度周りの様子を確かめるように見回し、成る可く芝居がからない様に気を使いながら欠伸の真似をする。
意識を眠りに浸らせ、何度かうたた寝と覚醒を繰り返し、深い眠りを自分の中で演出した。
――これで引っかかるなら、間抜けだな。
意識の片隅だけを残し、全神経を眠らせる。
――便利な体だ。
他人事みたいに心の中で呟き、徐々に人間である部分を無くしていく自分を笑った。
人の行動の大半は無意識の行動だ。
睡眠をとろうとするのも、空腹感を覚えるのも。
その無意識の領域さえも、最近のソルティーには失われていた。もう暫くすれば、意識して人間らしい行動を選ばなくてはならなくなるだろう。
――ローダーが揃ったからか? ……いや、そうじゃないな。
膝に重みを与えている存在があまりにも人らしくて、自分との違いを見せつけられるから、余計にそれを意識してしまった結果を嫌だと思えない。剰えそれが嬉しいのだから始末が悪い。
我が儘で、強情で、頭に血が上りやすくて、そのくせ変に素直な少年が、今のソルティーを前に進ませる基盤となっていた。
ハーパーの望んだアルスティーナの代わりとしてではなく。
規則的な寝息だけが微かに聞こえる。
広大な森の内部だからか、風が枝葉を揺らす音も少なかった。
日頃の関係を思わせるように、須臾とイニスフィスとテレンは、誰とも距離を取って眠りに就いていた。
この時間だけが平和を保てる。
誰か一人の目が覚めれば、悪言と喧噪が入り交じる一日が始まる。
しかし、ソルティーの考えが当たったのか、まだ蒼陽が天高く在る頃に、一人が目を覚ました。
僅かな乱れも許さない程のお気に入りの長い髪も気にせず、須臾は力を抜いた体をゆっくりと起きあがらせる。
手には彼がいつも腰にぶら下げていた袋から取り出した、細長く、全体に細やかな銀細工が施された棒が三本握られていた。
一本には鋭い三つ又に別れた槍の穂先。
その内一本を持ち、手首だけを簡単に動かすと、弧を描くように二本が動き、彼の手の中で一本の長い槍となった。
柄の中に細工が施してあるのだろうが、繋がると殆ど境目が消えてしまうのだから、これを造った者は余程の腕の持ち主だろう。
手にした槍を見つめる彼の表情は普段とは別人だ。
風貌が整いすぎていたが、普段は内面の軽さから冷たい印象は皆無だった。
それが今は、穂先と同じ鋭い視線に、冷酷な口元の笑み。
――さて……。
瞳だけで周囲を見回し、目的に焦点を合わせる。
足音を消し、気配すら断ちきって、酷薄な笑みを造りだしたまま向かうのは、深い眠りに就いているソルティー。
余程疲れているのか、誰も目を覚まさないのを確認し、須臾は槍をソルティーの心臓へと向けた。
――ゲルク、私の勝ちだな。
須臾が思い浮かべる筈のない者への優越感を感じながら、穂先を一気に突き出した。
「!!」
ソルティーの鎧に穂先が触れる瞬間、須臾の手は誰かの手に押さえられた。
見開かれた両目に映し出されているのは、眠ったままの状態で右手だけが自分の腕を掴んでいるソルティーの姿だった。他は微動ともしなかった。少なくとも須臾の目にはそう見え、ソルティーがやっと顔を上げたのは、呆れ混じりの呟きの後だった。
「……矢張り、間抜けだったか」
恒河沙を起こさない様に小声で呟き、更に槍を引こうとする須臾の動きも右腕だけで制する。
こうも単純な手に引っかかる相手に慎重になっていた自分が情けない。
「貴様は誰だ」
「……フッ、あんたのお仲間だろ?」
押しても引いても動かない相手の力強さに焦っていた表情を、急に冷静な顔付きにして須臾は鼻で笑った。
――矢張り仲間割れ目当てか。
相手が間抜けだとしても、自分の手を汚さないやり方には腹が立つ。
このまま硬直していても埒が明かないと、ソルティーは掴んでいた柄を、勢いよく右回転に廻した。
「ぎっ!」
歴然とした力の差か、単に相手の中身の悪さからか、力を込めて掴んだままの手首は簡単に捻られた。
――まずいっ!
槍を放してしまった須臾が、血相を変えたのを見てソルティーは笑みを漏らした。
弱い、と。
これが本当の須臾で有れば、こんな手に引っかかりもしないし、下手をすればソルティーは呆気なく殺されていたかも知れない。
しかし体が須臾の物には違いない。
――どうやら単に操られているだけじゃ無さそうだな。
それは生気の宿る目を見れば判る。しかもこの状況で他の二人が起き出す様子はない。同等に操られていたというなら、それではおかしい。
元々須臾に潜んでいたか、それとも最も大きく影響を受けた彼に後から潜んだかは判らない。兎に角今は須臾を捕まえるのが先だと、膝を枕にしてぜんぜんこの状況に気が付いていない恒河沙をどかそうとした時、須臾は逃げた。
「待てっ!」
作品名:刻の流狼第三部 刻の流狼編 作家名:へぐい