刻の流狼第三部 刻の流狼編
――我は無力だ。
護る事の難しさ。
決して叶える事の出来ない誓い。
苦しみを分かつ事も身代わりとなって背負う事も不可能な今、ハーパーに許される事は、ソルティーの足手まといにならない事しかない。
そして、彼に仇なす者を一人でも多く消す事だった。
「何時までそうして隠れているのだ」
完全に気配を断っていた者を探り、それが決して味方ではない事を感じていた。
ソルティーに隠れて忍ばせていた彼の持ち物に含まれた彼の気を増大させ、彼の変わりとして自らを囮にする。
それを知ればソルティーは心の底から憤慨し、同時に悲しむと判っている。だがだからこそハーパーはこの道を選んだ。
「なんだ、すっかりばれてやんの。てめぇの所為だ」
「そんな言うたって、俺に大将みたいな芸当無理に決まっとるやん」
お気楽な言葉を交わしながら大岩から姿を見せたのは、人にしては大柄な体の男と、掌に収まる程の小さな体を背中の羽で宙に浮かせた、妖精……の様な生き物だった。
「何用だお主等」
ハーパーは警戒心を緩めずにゆっくりと立ち上がり、彼等の方へ鋭い視線を放った。
しかし対する男は、尚も呑気な様子だ。
「何用? あ〜〜いや悪い、てめぇなんぞにゃ用はねぇんだ。俺が用があんのは、てめぇのその纏ってる気の持ち主なんでな」
「そうや、なにしてくれんねん。俺等すっかり騙されたやろ。そやから大将、俺が言うた通り、あっちの」
「てめぇは黙っとれっ!!」
丁度男の右腕の辺りを飛んでいたのが災いしたのか、早口で喋りまくる妖精擬きは地面に叩き落とされた。
どうも釈然としないが、彼等がハーパーの思惑に引っかかった事は確かだった。
「まあ、んな訳なんで、此処に居らんのやったら帰らせて貰うわ」
「待てっ!」
「ああ?」
「貴様、あやかしの手の者と見た。その様な危険極まりない者を、我がみすみす逃すと思うか」
「あやかしねぇ」
顎に手を寄せ、口元には楽しそうな笑みを湛える男の両目は、汚水が更に腐った様な、黒く濁った液体が詰まっているように見えた。
実際に彼に眼球などは無く、男の楽しげな表情に合わせるように、トプンと液体が小さく跳ねるのみ。
「世間一般にゃ妖魔なんぞとぶっこかれるが、動く屍の竜族さんは言い方まで古くせぇったらありゃしねぇな。――だが、まあ良いぜ、その呼び名気に入らねぇが、此処暫くろくな楽しみもなかったんだ、楽しくもねぇ仕事の前に、一つくらいご褒美貰っても構やしねぇか」
男はこんな軽口を吐き出しながら、背負っていた重厚な太刀を鞘から抜き、左手に握った。
なんの装飾も施されてはいない物だが、その太刀が何十人もの命を奪っている事は、男の纏う血臭から感じ取れた。
「よっ、大将っ、格好ええっ! ……うわぁっ!!」
なんとか体勢を立て直して宙に浮かんだ小さな体めがけて、男は太刀を凪ぎ払った。
一瞬でも避けるのを遅れていれば、小さな体はより小さな体になっていただろう。
「大将〜〜殺生やわ〜〜」
「ざってぇな、てめぇは引っ込んでろ。てめぇが口挟むと、ろくな事にゃなんねぇんだよ。こっちはこれから真剣勝負だ、さっさとどっか失せやがれ」
「へーいへい。ああもう、これやから大将の相棒すんのは疲れるで。玩具前にしたガキやないねんから、もうちょっと仕事きっちりやりゃええのに」
浮かんだまま足を組み、そのままの体勢で後ろに飛んでいく妖精擬きは、そう言いながらも楽しげで、男が負けるなど一部も思ってはいない様子だった。
「さて邪魔者はいんだし、いっちょ気張ろか竜族さんよ。ああ、その前に自己紹介と行くか、てめぇを殺す奴の名前くらい知っとくんが、騎士とかって奴の礼儀なんやろ? 俺はゲルク、まあ前の体の名前だがよ」
一度、ゲルクの眼球の変わりとなっている液体が、再びとぷん…と波打った。
「あ、俺はジャンタッ! 俺は妖魔とちゃう……ヒッ」
遠くから会話に参加する声は、ゲルクの弾いた石礫に遮られた。
殺気も緊張感も感じさせない二人のやり取りだったが、対するハーパーは今まで感じた事も無いざわめきを感じていた。
竜族であるなら、殆ど感じる事はない筈の恐れ。
強者に対する緊張感だ。
「で、てめぇの名は?」
人ならざる余裕を見せるゲルクに、ハーパーは牙を剥き出しにした。
「我が名は主に戴いた聖なる名。貴様のような者が口にすると穢れようぞ」
声高にそう言い放ち、ハーパーは右手を真横に広げた。
「けっ、せっかく俺が珍しく手順踏んでやろうと気ぃ利かせたってぇのによ。穢れからお生まれの妖魔様に向かって穢れるってか? ハッ、ふざけた事ぬかしてくれるぜ。よっしゃ、いっちょ骨の髄まで穢してやろうじゃねぇか」
楽しげなゲルクの視線の先では、ハーパーの右手首から先が大気の波紋の中に飲み込まれ、其処から手が現れる時には鋭い光を放つ重戦斧が握られていた。
見るからに重々しいそれは、竜族の体格だからこそ扱えるだろう代物だろう。
「便利だねぇ、竜族って奴は」
太刀の峰で肩を数度叩き、これから繰り広げる楽しい一時にゲルクは笑みを深めた。
強い者と闘う事がゲルクの源。
強い者と闘いたい、打ち倒したいと願う人の欲望から生まれた、ゲルクというの名の妖魔。強者と闘い、殺し続ける事が彼の欲望であり、更なる力をもたらす物である。
故にハーパーはゲルクにとってまたとない標的であり、糧でもあった。
「主の元へは行かせぬっ!」
「すまねぇが、てめぇは此処で俺に殺されるのは決定済みだっ」
一気に膨れ上がったゲルクの殺意にハーパーは重戦斧を構える。
ろくな間合いを考えず突進してくるゲルクは、体からでは考えられない身軽さであった。
迎え撃つ形となったハーパーは戦斧を振り払い、彼の軌道を逸らす。
一度でも太刀の間合いに入れば、巨体故に動きが鈍いハーパーは切り刻まれる。
しかしハーパーの動きなど見越していたのか、ゲルクは多少の余裕を見せ戦斧から飛び退くと、力強く屈んで戦斧が戻る前に地面を渾身の力で蹴り上げる。
「でりゃぁぁああっ!」
「―――!」
奇声を上げて太刀を振り下ろすゲルクに向けてハーパーは左手を突き出し、咆哮をあげた。
その瞬間、二人の間に力では突き破れない透明な壁が出現し、ゲルクの体をはじき返した。
「愚か者っ!」
地面に叩き付けられたゲルクに、今度は左手を凪ぐ事で出現させた炎が飛び掛かる。
「まじかよっ?」
闘う事以外の知識のないゲルクが、呪文も無く呼び出された炎を、驚きながらも退く事で避け、直ぐさま体勢を立て直す。
「おいおい竜族さんよ、得物持ってんならそれで戦うって言うのが、武人の誉れって奴じゃねぇのかぁ?」
「……戦いとは、勝たねば意味は無い」
言われるまでもなく、この様な戦い方は自分の主義に反する事だが、そうしなければならない状況であるという事だ。
「何があっても貴様を人の世に住まわせる訳にはいかぬ」
竜族を相手に一歩も怯まず、しかも引けも取らぬ存在は、それだけで人の脅威となるだろう。
自分の主がこれから行おうとする事を考えれば、決して見過ごせる者達ではありはしない。
作品名:刻の流狼第三部 刻の流狼編 作家名:へぐい