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刻の流狼第三部 刻の流狼編

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 声帯も聴覚も竜族と比べれば遙かに劣っている人間は、他の種族よりも更に彼等の言葉は理解できない。しかも本来竜族の音声は兎に角大きい。とても人の世では通じないのだ。
「ですから、我に相応しい名をソルティアス様に戴きたいのです」
「う〜〜〜ん」
 なんとかハーパーの期待に添うべく考え始めたソルティアスは、何度も首を縦に振り横に振りを繰り返し、次第に空が赤く染まるまで真剣に考え続けた。
 子供なりに、格好いい名前や、威厳のある名前を考えたが、どうしてもそれは誰かの名前となってしまう。それでは意味がない事も判っているから、自分の大好きな者のお願いを時間が経つのも忘れる位に考えた。
 此処まで考え込まれると、それはそれで冥利に尽きるが、このまま夜になると困るのはハーパーだけでは済まされない。
――時間をかけるしかないか。
 そう考え、ひとまずは心配しているだろう屋敷の者達の元へ帰ろうかとした時、ソルティアスが勢いをつけてハーパーに向かって顔を上げた。
「ハーパーッ! ワァの名前、ハーパー」
「ハーパーですか?」
「うん。あのね、いっぱい考えたんだけど、さっき聞いた、ワァの名前と同じ方が良いかなって。だって、ワァの名前、ワァのお父さんとお母さんが考えたんだから、ぼくがぜんぜん違う名前つけたら、お父さんとお母さんがかわいそう」
 全く違うが、ソルティアスにはそう聞こえたのだから仕方ない。それに、彼なりにハーパーを気遣っての言葉なのは紛れもないのだ。
「でもね、ダブルって言うのも考えたんだよ。ぼくの大好きな、お話に出てくるすっごく強い人の名前。ワァもすっごく強いから、大好きだから。でも、誰かとおんなじ名前なんて嫌だよね……」
 そう言って気落ちするソルティアスをハーパーは肩から下ろし、両手で頭上まで抱え上げると、真剣な眼差しで彼を見つめた。
「では、その名を二つとも戴きましょう。今より我の名は、ハーパー・ダブル。我、唯一無二の主、ソルティアス様から戴いたその名、生涯我の誇りとなりましょう」
「ほんと?」
「ええっ! 我がソルティアス様に嘘を申した事が有りましょうや。我は今、心からソルティアス様に感謝と、尊敬の念を抱き、今一度この名を口にしましょう。我が名はハーパー・ダブル、そして、我が主はソルティアス様お一人で御座います」
 嘘偽りの無い言葉でハーパーは誓い、ソルティアスは嬉しそうに微笑みながらしっかりと頷いた。
 ハーパーにとって、この時からが自分の始まりとなった。
 父ローダーを先頭に同じ一族でありながら、心からの恩や、感謝を彼等の主に感じなかったハーパーが初めて手に入れた、護るべき存在がソルティアスとなった。
 誇りや尊敬、確かにそう言う感情を、一族の主ユイディウスに感じなかったわけではない。ただ心が伴わなかっただけだ。
 今彼の目の前で、自分を見つめる幼い王子が、ハーパーの誓いの意味を知るのはまだ先となるが、それでも心がそうしろと命ずる。護れと心が声を上げる。
 漸く父が誇りを持って語った言葉の意味が理解できた。


――命を賭しても、その意味は必ずある。我が命、総てはソルティアス様の為に。


 しかしハーパーの誓いの中、成長を続けるソルティアスが、幸福だけを抱いて暮らしていたわけではない。
 ローダーの危惧した通り、大臣達の権力争いは確実に存在していた。
 ハーパーとローダーが先回りをしてソルティアスの許婚を選出しなければ、お后選びだけで数年は裏での争いが有っただろう。
 アルスティーナは血筋的にはそれ程高貴と言える身分ではなかったが、邪心が含まれる高貴さよりも、ソルティアスだけを想う彼女の純粋さに、ハーパー達は正しい選択だったと自らを誉めた。
 先に産まれた側室の王子が成人をする頃には、随分と走り回った。
 もてる知識と力とローダーの地位を使い、ソルティアスには決して言えない裏の取引もかなりした。薄々知られていると思いながら、それを口に出さないソルティアスに感謝しながら、ハーパーは主の為だけに全力を尽くした。
 なにもかも、ソルティアスの、
「私の誇りはハーパー、君が居る事だ。大好きだよハーパー。この気持ちは、たとえ私が朽ち果てても変わる事はない」
 その言葉で許される気がした。


 あの日を迎えなければ。


 十七歳となって無事に成人の儀式を終えたソルティアスは、度々政務に携わるようになった。
 政務と言っても父王の名代として、他国の行事に参加する事だったが。
 いつものようにハーパーが先にリーリアンを発ち、向こうでソルティアスを迎える準備をしていたあの日、ハーパーの誇りも夢も生きる希望すらも一瞬で消えた。

 総てが一瞬で消えたのだ。

 残ったものは、国を発つ時最後にソルティアスが語った言葉だけだった。
「直ぐに行くから。ハーパーは安心して待っていてくれ」
 周りの期待に直ぐに無茶をするソルティアスに対して、いつも心配を重ねるハーパーに、笑顔でそう言った彼の言葉。
 どうして側に居なかったのだと、どうして護れなかったのだと、何度自ら死を選ぼうとしたか判らない。
 死ななかったのは、それで自分の罪が消えるとは思えなかったからだ。何より償う相手が何処にも居ない。
 償う事が許されぬなら、その罪を背負いながら生き続ける事。それがハーパーの下した自らへの戒めだった。


 時が流れ、ハーパーの元へ一人の男が現れるまで。
 ソルティアスが、もう一度自分の元へ帰ってくるまで。


 闇の中より生まれ落ちる様に現れたソルティアスは、あの日最後に見た姿ではなかったが、どんなに姿を変えようと心に誓った主を見間違う筈はなかった。
 たとえ喜びと感謝を胸に抱き締めた主の心に、消しようのない狂いを生じていたとしても、ハーパーの誓いになんの変化ももたらさなかった。
 たとえ自分が導かれた理由が、力に押し潰された彼を殺す事だとしても、ハーパーにとって主はソルティアスだけだった。

 ハーパーにとっての正義はソルティアスただ一人。
 ただそれだけが、偽らざる真実。

 もう二度と失いはしない、強き思い。





 リルスベリアクラの希薄な大気の中、跪いたままハーパーは何度も地表に涙を落とした。
 偶然とは言え一人生き残った彼に出来る事は、ただひたすら許しを請う事だった。
 あの日リーリアンで何が起こったのか知れば知るほど、理不尽に対しての怒りがこみ上げてくる。同時に自分一人が助かった事に対しての、納得できない憤りがハーパーを苛んだ。
 ソルティアス、いやソルティー・グルーナは、この世界に戻された時には、精神を破壊されていた。その姿はまさしく狂気に触れた状態で、まともな会話など出来もしない有様であった。
 寝る間も惜しむ努力を尽くしても、彼を正気に戻すのに一年以上を費やした程だ。その後も文字通り共に傷付きながら再起を果たし、二人の旅が始まった。
 リーリアンで起きた忌まわしい出来事は聞かされたのものの、彼の身に何が起きたのか。それは今でも教えられていない。
 秘匿されるべき事ではなく、口にするもおぞましく、言わない事でハーパーの苦界を取り除く為だった事は、主の仕草一つで気付く事であった。