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刻の流狼第三部 刻の流狼編

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「我にも判りませぬ。ですから、ソルティアス様と共に考えましょう。二人ならば、なんとかなるかも知れませぬ」
「……ほんと? ワァもわからないの?」
「はい。この世界は判らぬ事だらけであります故に、ソルティアス様にも一緒に考えて頂きたいのです」
「うん。だったらワァといっしょに、ぼくもがんばるね」
「はい、頑張りましょうぞ」
 まだ自分がこの国の正統な後継者だと理解していないソルティアスは、周りの子供に両親が居る事も気にせず、ハーパーだけを頼りに生きていた。
 その姿が、ハーパーの心を変えていった。
 自分ならこうするだろう、自分ならばこうあるべきだとしか考えず、周囲にも同じ事を要求していたハーパーが、ソルティアスを育てる事で、人が何を考え、何をしようとしているのかを考え出したのだ。
 ハーパーにとって、ソルティアスが掛け替えのない存在となるには、それ程時間は必要ではなかっただろう。

 そして、ソルティアス五歳の誕生日。
 初めてソルティアスは父ユイディウスと母レビオナと会うことになった。
 その頃には自分の置かれている立場と、何故自分が両親と離れて暮らさなくてはならないのかを理解していたソルティアスに、それ程何かの感動がこみ上げる事はなかった。
 少なくともその場では、彼は王子としてハーパーが教えた通り冷静に振る舞っていた。
「……ワァ、どうして父様も母様もワァと同じ事をしてくれないの?」
 別邸に着いて部屋に戻って直ぐ切り出される言葉に、ハーパーは首を傾げた。
「どうして、抱っこしてくれないの?」
「……それは」
「ワァは僕のこと好きだから抱っこしてくれるんだよね? 撫でてくれるんだよね?」
 泣くのを堪えながらの言葉は、「嫌いだからそうしてくれない」と言っていた。
 あの謁見の間には、ソルティアス以外の王子と王女が居た。
 ある意味ソルティアス同様に、王の愛情を受けることなく育てられている彼等を前にそうする事は、歴然とした正室と側室の差を掲げる事になる。
 ユイディウスもレビオナもその様な愚行はしない。ただそれだけの事だったが、そんな大人の事情を理解させるには、ソルティアスはまだまだ子供だったのだ。
 彼があの場で我が儘を言わなかったのは、偏にハーパーの言い付けを守る為でしかなく、その苦しさを後になって知らしめられた。
「どうしてかな?」
 悲しみの晴れないソルティアスをハーパーは抱き上げ、心からの愛情を湛えた瞳で彼に語りかけた。
「ソルティアス様をみんな大好きです。しかし王様も、王妃様も、それはそれはお忙しい方ですから、抱っこする事を忘れているのですよ」
「忘れちゃうの?」
「ええ。ソルティアス様も、お勉強をお忘れになられた事が御座いましたな? 大事な事がいっぱいあると、どうしても大事な他の事を忘れてしまうのです。あの時は、王様も王妃様も、ソルティアス様を見つめる事と、話かける事が大事だったに違い有りません。お優しい言葉だったとお感じになられませんでしたか?」
「ううん、とってもやさしかった」
「だからです。心配しなくとも、ソルティアス様を誰も嫌ってはいません。もし、そう言う者が居りますれば、ソルティアス様を一番大好きな我が叱りに行きます」
 自信たっぷりに言うハーパーの首に、まだ短い腕を巻き付け、ソルティアスは嬉しそうに微笑んだ。
「ワァ、大好き」
「我もです」
 以前ならこんな一言を誇りに思える事は無かっただろう。
 自分の手で育てたからか、ソルティアスであるからかは判断できないものの、この一言が有るならば、どんな事にも耐えられるとハーパーは確信した。
 そしていつまでも、そう言って貰える努力をしようと誓った。


「ワァ、どこ行くの?」
 今日は遠出をしようと言い出したのはハーパーだったが、彼がソルティアスを案内したのは庭先だった。
「乗り物は? 此処にはないよ?」
「今日は我がその乗り物です」
「?」
 不思議そうに見上げるソルティアスを両腕で抱き上げ、滅多に使わない翼を広げる。
「恐いですか?」
「ううん、ワァが一緒なら、ぜんぜん恐くない」
「そうですか。ですれば、我の首をしっかりと抱いていて下さい」
「うんっ!」
 その言葉を合図に、ハーパーは真っ直ぐ空を見上げ、大きく翼をはためかせた。
 庭の草木が一斉に揺れ、風の音を纏いながら一気にハーパーの体が空に飛び出した。
「うわぁっ! ワァ見て、空があんなに近い」
「はい。もっと近くに行けます」
「すごい、すごいよワァッ! きれいだよ、すっごくきれい」
 小さな体に成る可く負担のない飛び方をし、ソルティアスの感動の言葉を一語一句耳に焼き付けた。
 多分この事が知られれば、ローダーの叱責を受けるに違いなく、悪ければお役御免となるかも知れない。
「ソルティアス様、下をご覧下さい」
「下? ……うわぁー、街が、お城があんなに小さいっ!」
 それでも見せたかった。
 彼が大人になり、忘れてしまうかも知れないが、翼を持たない故に見る事の叶わない世界を。翼ある者だけが見られる、美しい世界を。
 何れ、遠くない時を経て、否応なくこの国の王とならなければならない彼に、自分の護る世界がどれ程美しく、そしてどれ程自然に護られているのか、その目で、その耳で、体全体で知って欲しかった。
「ワァ、きれいだね。ほんとにきれいだね」
 この感動を忘れなければ、この国は素晴らしい王に支えられると心からそう思った。

 街や城を一望できる高台に降り立ち、地平線を見つめながらハーパーはかねてから誓っていた事を、肩に座らせた未だに感動に打ち震えるソルティアスに切り出した。
「ソルティアス様、我は一つだけソルティアス様にお願いが御座います」
「お願い? なに? ぼくワァのお願いだったらなんだってするよ」
「我に名前を与えては戴きたいのです」
「名前? ……ワァ名前ないの? ワァじゃ駄目なの?」
 今更と言わんばかりのソルティアスにハーパーも流石に肩を落としたが、幼児言葉そのままを名前にしたくなかったので、暫く思案した結果、気を入れ直してもう一度頼むことにした。
「ソルティアス様にお呼び頂ける名であれば、我はどのような名でも構いませぬ。ワァと呼ばれる事も、我は大好きです。しかしどうも城での職務の際に、ワァと短くては箔がつきませぬ。我もソルティアス様のような、少し長めの名が欲しいのです。何卒、我のお願いを聞いては貰えないでしょうか?」
「う〜ん……」
 どうやらちゃんと考えてくれるらしく、両腕を組み首を傾げて考え込んだソルティアスに、ハーパーは胸を撫で下ろした。
「ワァにはほんとに名前ないの? お父さんやお母さんは、どうしてワァに名前つけてくれなかったの?」
「有るには有るのですが、我等竜族の名は少々人のものとは違いまして」
「どんなの?」
「……はぁ、では」
 多少の戸惑いを背負いながら、ハーパーは大きく口を広げ、雄叫びを発した。
「です」
「えっ?」
 あまりの音量に耳を塞いだソルティアスに、ハーパーは可笑しさを堪えた真面目な顔を作った。
「ですから、今のが我の名です」
「ハウーーーとかが?」
「はい」