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刻の流狼第三部 刻の流狼編

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 アストアに四人が逃げ込んでから十日余り経過し、ハーパーが漸く翼を羽ばたかせるまでに回復を果たした今日、一足早くこの森を彼一人が去る。
「矢張り、我は気が咎められる」
「ハーパー……」
「しかしこれも我に定められし試練なのかも知れぬ。須臾に恒河沙、呉々も主の事頼む」
 空だけを見つめ、それでもその言葉が本心からなのだと思える真摯さで、ハーパーはソルティーの後ろに控える二人に再三の頼みを口にする。
「まっかせて!」
「……まあ、出来るだけの事しかしないけどね」
「それで構わぬ。我の居らぬ暫しの間、何事も無きよう心して取り掛かれよ。では、主」
 もう一度ソルティーに顔を向け、しっかりと彼が頷くのを確認してからハーパーは頭上の雲一つない空を見上げた。
 折り畳まれていた深紅の羽の無い翼が大きく広がり、ハーパーの言葉無き声が風を誘う。
「……我が身一つで納まればよいが」
 彼にしては珍しい呟きは、大きくはためかせた翼と風に掻き消え、全員の見守る中大空へと舞い上がった。
「うひゃー、すっげぇー」
 送られた風に乱れた髪も気にせず、恒河沙は一気に空へ駆け昇っていくハーパーの雄姿に、羨望の眼差しと感動の溜息を送る。人間では決して味わえない飛ぶ事の意味と感動。どんなに憧れても、努力をしても手に入れられないそれを、彼はハーパーが空に飲み込まれても、尚ずっと見続けていた。
 一方ソルティーは、ハーパーが消えるのを待たずその場から立ち去った。
 それを追うのは気持ちの翳りを消せないニーニアニー。
 そして恒河沙に寄り添いながら、二人の退場を視界の端で見続ける須臾。
――もしかすると、これが本当の始まりなのかな。
 浮かんだのは疑問と疑惑。
 心の中で自分自身に問いかけてみるが、その答えは誰にもたらされる物でもなかった。


「ソルティアスッ!」
 螺旋を描く塔の階段を降りるソルティーの背中に、ニーニアニーの声が当たる。
 振り返ると駆け下りてくる彼の姿が見えた。
「本当に明日此処を……」
「ああ。世話になった」
 傍らまでニーニアニーが来るのを待って、また階段を降り出す。
「どうしてもなのか。どうしても、行かねばならぬのか」
 自分自身に問うような言葉に、ソルティーは頷くだけに抑えた。
 事有る毎に掛けられる同じ質問に、ソルティーは同じ言葉で答えを出し続けている。
『もし君が私だったら、同じ道を辿るだろ?』
 それは一個人としてではなく、国を背負う者としての言葉なればこそ、ニーニアニーはいつも言葉を返せずに終わった。
「ニーニアニー、私の民はまだあの国に居る。私の帰りを待っている。そして、私の国は一つしかないんだ」
「そんな事は判って居る。判りきって居る……」
 王とは、そして国とは、民を無くしては語る事は出来ない。
 民と言う“人”を統べ、護る事こそが、王がこの世界に許される理由。
 今ではもう、その意味さえも知らずに形だけが残されても、自分達だけはそう在り続けなければならない。それが過去を知る者としての役目でもあるのだろう。
「しかしソルティアス――」
「どうにもならない。それも判りきった事だ」
 迷いのない笑みを口元に浮かべたソルティーは、苦痛を胸に宿すニーニアニーを見下ろした。
 僅かでも躊躇いや恐れを読み取る事が出来れば、ミルナリスとの約束を捨てようとと言う思いも虚しく、ニーニアニーの目には穏やかな微笑みだけが映された。
 何故彼だけがと思う。
 国を奪われ、民を奪われ、そして命さえも……。
 出来る事なら変わりたいと思う。いや、この世界の誰もが平等に、同じだけの苦しみを背負えばいいと。
 しかし、それを口に出して彼を侮辱する事も、知りすぎていた。
「最後に一つだけ頼まれてはくれないか」
 俯き、何度も言い倦ねているニーニアニーに、ソルティーが穏やかな口調で切り出す。
「総てが順調に終わる事が出来、もしも私が帰らなければ、墓を造って欲しい」
「墓を……」
「ああ。出来る事なら、あの日何も知らずに死んでいった者達総ての墓を。誰にも知られず、忘れ去られた者達が、確かにそこに生きていたという証が欲しい」
「……約束しよう。しかし、余が望むのはソルティアス、そなたが無事に帰ってくる事だ。それを忘れてはならぬ」
 溢れそうになる涙を両手を握り締めて堪え、叶えられない願いを必死に口にした。
 言い続ける事で、願い続ける事で、成就する願いが有ると誰かが言った。
 子供として生きる事が許されなかった為に、そんな話は有り得ないと笑い飛ばした。
 だけど今は、信じたい。
 信じる事で何かが変わると、唇を噛み締め、傍らの温もりを心に刻み込んだ。





 もうすぐ夜が明ける。
 暗く広がる森を前に、ソルティーは最後の言葉をニーニアニーに寄せた。
「随分と世話をかけた。しかし、此処へ来られて本当に良かった」
「いや、本来なら余が君を迎えなければならなかったのだ、何も案ずる事はない」
「ありがとう」
 別れを惜しむように差し出されたニーニアニーの手を握り返し、その小ささを改めてソルティーは実感した。
 ニーニアニーに寄り添うように立つミルーファが、いつか彼を含むアストアの王の苦しみを解放する事を願いながら、ゆっくりと手を放し、ソルティーは自分を城門の外で待つ恒河沙達の方へ向かった。
「ソルティアスッ! 必ず、必ず戻って来るんだっ!」
 森にこだまするニーニアニーの叫びに、ソルティーは一度だけ振り向いて片手を上げた。
 その姿を目に焼き付けようと、ニーニアニーは瞬きも忘れ食い入るように見続けようとしたが、次第にぼやけだす視界に思わず上を見上げた。
「ニーニアニー様……」
 心配そうに彼の手を握り、彼の肩に頬を寄せるミルーファを感じ、震えそうになる声を出す。
「余は間違いを犯したのかも知れぬ。余は、また過ちを繰り返すのだ……」
 言いたかった言葉、語れなかった真実が、きっと何時までも消えずに残り続けるだろう。
 過去にあった苦しみ故の狂いが、今度は自分に訪れるかも知れない。
 しかし、
「ニーニアニー様……。もし、たとえ貴方様がそうであっても、ミルーファはいつまでもお側に居ります。あの方がお戻りになられる事を信じましょう。私も、信じ続けますから」
 生まれながらに王としての道を歩き続けてきた者の最後の涙を、ミルーファは全身全霊で受け止め、そして支えようとした。
 しかし、その心を知っていても、ニーニアニーは涙を止める事が出来なかった。


 誰にでも罪の意識や、後悔は存在するだろう。
 しかし、人はそれを忘れられる。
 忘却であり、死であるそれが、もし得る事が出来なければ、人は生きていけるのだろうか。
 ニーニアニーは、アストアの王は記憶し続ける。
 犯した過ちを、過ぎし日の悔恨を。

 この世界が無くなる、その日まで。








「さてと、いっちょ肩慣らしでも始めっか」
「ほんまかいな大将っ!?」
「ああ、やっと話ついたらしいしな」
「そやったら、はよ行こ。先越されるん嫌やし」
「おうよ!」


episode.17 fin