刻の流狼第三部 刻の流狼編
episode.18
人は決して一つではない。世界が一つでありながら分かたれているのと同じに、幾つもの感情が犇めき合いながら、その不文律の調和によって個性が生み出されているに過ぎないのかも知れない。
その中でも、より人の性質にさえも影響を与えるのが、善と悪なのかもしれない。
しかしどこから善で、どこからが悪と言えるのか。それすらも人の心次第で、如何様にも変化するそれを、どう区別すればいいのだろうか?
完全なる善も、完全なる悪も存在しない。だからこそ人は何かを求め、それが人の世に欲望を蔓延させる。
そして欲望がまた、人の心に変化を与える。時には善、時には悪として。
人の世に巣くう欲望に疲れはない。絶えず世界に在り続け、変貌を続け、人を惑わし続ける。だがそうであるなら欲望こそが、人の真実の姿なのかも知れない。
* * * *
ニーニアニーがソルティー達の案内にと用意したのは、イニスフィスとテレンと言う名の三十代の兵士だった。外見は種族的な違いから、どうしても五十後半に見えてしまう所為で、恒河沙と須臾はやりにくさを感じてしまう。
特にテレンに関しては、ニーニアニーに言い渡されたから渋々案内をしている、と言うのを隠そうとしない。かなり外部の者を毛嫌いしている様子で、恒河沙が何かにつけて彼と衝突しない筈がなかった。
森を抜ければ外を進むよりも遙かに時間を短縮できる。だがその森であっても四月以上の長い旅であり、人の感覚を惑わせる森の旅は案内無くては、一歩も前には進めない。この状況下の中でアスタートの機嫌を損ねれば、それは死を意味する事と同意となる。
と、言うわけで、恒河沙の暴発を食い止めるのは、専らソルティーの役割と化していた。
その間、本当の恒河沙の保護者である須臾は、同じ景色が続く事と、まだまだ続けなければならない禁欲生活に苛立って、周りの事等お構いなしになっていた。
原初の時より、人間と獣族は別の存在であった。相容れるもの、相容れないものの全てが分かたれ、共に歩む存在ではなかった。
何故そのような分かたれた存在として生み出されたかは、誰も知らない。知る必要のない話だ。このカリスアルには、そんな理由を知る意味の無い事実が、当然の事として満ちている。
ただそれだけの話。
その中でも如実に存在するのは、人間は森に受け入れられず、獣族は恩恵を受けられる事だろう。
その獣族である須臾が、城を出てから少しずつ様子を変えていった。
元々、須臾は自分の事を表立って見せる性格ではない。歯に衣着せぬ物言いをする事が多いが、決して本心を見せはしない。恒河沙のように怒りに身を任せる事は一切無く、絶えず自分を客観視でもしているような話し方をする。
感情をさらけ出す事が弱味を知られる事と、よく知っているのだ。
そんな彼が、城を出てから五日も経たない内に、苛立ちを吐くようになった。
「ああっ! もうっ! なんだって言うんだよこの森はっ! ソルティーもどうかしてるよっ、こんな所通るなんて、気が知れないよっ!」
彼をよく知っていればいる程、こんな彼をおかしく思うだろう。例えこれが彼の本心だとしても、依頼者を金の成る木と思っている彼が、少なくとも本人を前にして言うはずがないと。
だが実際に須臾は、神経質そうに目をつり上げ、口を開くと汚い言葉をソルティーに向かって吐く様になった。
退屈を抱えて城で時間を潰していたよりも、河南を通る際に紐で繋がれての移動より、何倍も楽だと思われるこの行程を、須臾は普段では考えられない気の短さで送っていた。
確かにアストアの森は、他の森とは似ても似つかない特徴がある。
他の森では存在する人以外の生き物達が居ない事や、いつも自分達以外の誰かが近くに居るような気がする事は、ともすれば人の正気を奪いかねない状態だと言える。
しかしそれは、この森がアスタートの主、樹霊王の森だと言う証拠でもあり、人が産まれもって刻まれている理でもあった。それを獣族たる彼が気にするのはあってはならない事であり、もし当然の事ならば城を出てからと言うのはおかしな話だ。
但しこの事で最も被害を受けているのはソルティーではなく、須臾が金や女性よりも大事にしていた恒河沙だった。
「お前が変な駄々をこねなかったら、とうに僕達は村に帰っていられたのに、こんな何にも無い所に居なかったのに」
「……須臾」
「ああもう煩いな。もうお前の我が儘につき合うの疲れる」
「あ…あぅ……」
一方的に言われても、実際に須臾をつき合わせている後ろめたさが有っては、ろくな反論も出来るはずがない。
何より須臾に辛く当たられるのは初めてだった。
何時も何かがあって、どんなに呆れられても、どんなに叱られても、最後には自分の味方であってくれた。今ここに自分が居る事も、確かに須臾が味方になってくれたからだった筈なのに……。
「ソルティー……須臾が……」
須臾に何か言われる度に、殿のソルティーにとぼとぼと歩み寄る恒河沙。それは連日の出来事となりつつあった。
「俺、やっぱり一人で来た方が良かったのかな? ……須臾やっぱり紫翠に帰りたかったのかな……」
須臾が心配でなるべく傍にいようとしても、辛い言葉によって追い立てられる。
責任の一端を担っている気持ちが強い恒河沙には、かなり堪える状況だろう。それでも果敢に須臾の気を紛らそうと試み続けている。
その姿は日増しに落胆の度合いが激しくなっていき、ソルティーは彼にどう言った言葉をかけるべきなのか悩むばかりだ。
「今はそっとして置いた方が良いだろう。きっと直ぐに落ち着く」
「ほんと?」
「……ああ。彼にしては珍しいが、八つ当たりだろ?」
そうは言っても、始めの頃はそれで通用していたが、十日も過ぎれば、その安易な言葉も嘘になってしまう。
かといってソルティーが二人の間に入っても、余計に話が拗れるのは目に見えている。
これが森の外であるなら、話は簡単に治められるだろうが、生憎そうも出来ない。ソルティーとしても、ほとほと困り果てている状態ではあるのだ。
――芝居をしている風にも見えないし。
須臾が恒河沙に対して言葉を荒げた時は、正直何かの思惑から彼がそう言う態度をしているのだと思っていた。
城で聞いた自分に同行すると決めた彼の意志は、恒河沙の事はあっても彼自身の意志だったはずだ。わざわざ引き返す事の許されない森に入ってから、考えを翻す程の思慮のない者ではない。
それに、確実に彼の様子は変になってきていた。
周囲の人は勿論、動かぬ木々に対してさえも、ハッキリとした理由もなく当たり散らしていた。それは言葉だけに留まらず、次第に手や足が出るようになっていった。
そしてそれは感染するかのように周囲に広がり、何時しかイニスフィスとテレンまでが苛立ちを現すようになっていった。
イニスフィスはテレンと違い、人当たりの良い穏和な男だったが、先頭歩く二人は時折急に口論を始め、その為に何度も足を止める事になった。
その頃になって漸く恒河沙も事態がおかしい事に気付き、ソルティーはただ冷静にその光景を見据えていた。
作品名:刻の流狼第三部 刻の流狼編 作家名:へぐい