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刻の流狼第三部 刻の流狼編

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「……貴方様のお気持ちは判っております。しかしそう仰られても、私ではどうする事も出来ませんわ。私自身はこの事に介入を許されておりませんもの。それに、今の私はもう魔族としての生き方しか出来ません」
 苛立ちを隠そうとしないニーニアニーに、どうしても受動態でしか行動できない立場を諭す様に言い、溜息を吐き出しながら自分も困っていると付け足した。
 その姿にニーニアニーは更に疑いの眼差しを向ける。
「では何故ソルティアスを助けたのだ? 介入できぬと言いながら、余の元へ彼を連れてきたではないか。そもそもソルティアスとあれとは別だ。――そなたは一体何を望んで居るのだ? 己らが不始末だと思うならば、己らだけで決着を付けろ。これ以上、彼に重荷を背負わせる必要が何処に在ると言うのだ?」
 ミルナリスに詰め寄り、どうしても彼女の言葉に納得出来ないとニーニアニーは疑惑と怒りを募らせ、彼女は目を合わせたまま黙り込んだ。
 言葉が見当たらないのか、それとも答える気が無いからかは検討がつかないが、それが彼の感情を逆撫でする原因にはなった。
「答える気が無いと申すなら、余は余の知る限りの総てをソルティアスに話す。いや、知らねばならぬ!」
 己の立場を優先させる彼女との埒の明かない遣り取りに業を煮やし、ニーニアニーは彼女に背を向けると、背後でガタンと椅子の倒れる音が響いた。
「待って!」
 ミルナリスの手が取り縋るようにニーニアニーの腕を掴み、必死の形相で彼を引き留める。
「お願いですから、彼には何も言わないで下さい!」
「ミルナリス……」
 振り向いて正面に立つミルナリスは、今まで見た事のない動揺を瞳に湛えていた。それは落ち着き払った物腰で、全てを思うがままに操るような少女が、初めて見せた感情だったかも知れない。
「……では、その訳を話せ。納得の出来る話ならば、余の胸にだけ留める」
 時として人は人の世界の王を裏切るが、精霊は違う。何事に於いても主の言葉を優先させる事こそが、精霊の悲しい性と言えるかも知れない。特に彼女にはそうしなければならない理由さえ在り、それを知る唯一でもあろうニーニアニーには、とても信じられない程の違和感を感じさせた。
 今のミルナリスの関わり方は多少の異質さが有り、現に今目の前にいる彼女は狼狽を打ち消せずに、“自分の言葉”を探そうとしていた。
「……承知…いたしましたわ。ですが本当に私は何も存じ上げて居りません。本来なら、あの様な者が存在する事さえも予定もされておりませんでしたわ。あの方がシェマス様方と行動を共にせず、成長過程のプロヴィザイアが現在の姿である事さえも、全くの予定外なのです」
 ミルナリスの最後の言葉にニーニアニーは気色ばむ。
 結局、彼にしてみれば、彼女の言葉は神に近い目線の言葉としか思えなかった。
 始まりから終わりまでを見透かしたような言葉は、それに巻き込まれた者の気持ちまでは理解出来る筈がない。そんな怒りが、沸々と沸き上がってくる。
「ならば尚の事、あの様な不確定要素の存在を連れさせる訳にはいかぬ」
「貴方のお気持ちは判ります、判りますが、今はまだ。総ては私に……」
「任せろと言うのか? 主の眷属だった頃ならいざ知らず、しかし冥神の眷属と成り果てた今のそなたを信じろと言うのか」
 痛烈な皮肉を込めた言葉にミルナリスは俯いて唇を噛み締め、暫くは言葉を失っていた。次に顔を上げた時には涙を堪え、震えそうな声を懸命に抑えながらニーニアニーに訴えた。
「お願いです、せめてプロヴィザイアが何故あの様な自我を形成したかを調べるまでの時間を、私にお与え下さい。シェマス様方とあの方の目的は、たとえ取るべき方法の違いはあっても同じなのです。もしかすれば何かのきっかけであの方が覚醒するなら、それはきっとソルティー様の助けと成れる筈です。プロヴィザイアならソルティー様を救う事が出来るかも知れない!」
 様々な感情が入り交じる彼女の本心が漸く伝わる。
「そなた、もしかして……」
 躊躇いながら思わず口にした言葉に、ミルナリスは今にも泣きそうな笑みを浮かべる。
「可笑しいですわね、ただの人形である私が、それも人を想う事が……。それでも私はあの人を救いたい。ですが今の私は、あの方の手の上でしか身動きが出来ない。私自身が、あの人の力には成る事は不可能です。ですからプロヴィザイアをあの人から遠ざけないで下さい……、私を傍に居させて……」
 流れ落ちた涙を隠すために両手で顔を覆う姿に、ニーニアニーは小さく首を振る。
 報われないと知っていて、人間を好きになってしまった精霊の末路を彼は知り尽くしていた。
 何より、今度ばかりは相手が悪すぎた。
「それでは話をした方がソルティアスも判断がしやすかろう」
 やりきれなさから最善だと思う提案をニーニアニーは口にしたが、ミルナリスは泣きながらも懸命に拒み続ける。
「真実を知らしめて何になると言うのです。あの方達は、今を必要としているのですわ。もし真実を知れば――」
「ソルティアスはあれを帰すのであろうな。冥神があれを喰い潰す前に」
「……はい」
「難儀な話だ。あれをただの人と信じているからこそ、ソルティアスは今を護ろうとしている。当然と言えば当然だが」
「私には判ります。仮初めの命を与えられた者の背には、絶えず闇が私達を取り込もうと手招きし、その甘美なまでの誘惑から逃げるには、この胸の強さだけしか御座いません。信じていた事がそうでは無かった時、どれだけ心の痛手となるのか……。今、あの人を支えているのがプロヴィザイアであるなら、真実を知らせて傷付かない保証はありません。……過去の私が……そうだったように……っ……」
 ミルナリスは最後の言葉を口にすると同時に、深く切り裂かれた胸の傷を隠すように両手で自分自身を抱き締め、床に泣き崩れた。
 長い時の中に埋もれていた苦しみが一気に押し寄せ、それに押し潰されてしまった様な姿に、慰めも叱責の言葉もニーニアニーには見当たらなかった。
 抑えようとしても零れる彼女の嗚咽を耳にしながら、深く目を閉じる事だけが許される事に思え、そっと胸の奥で呟くのだった。


――ソルティアス……余はまたもや真実を君に告げられぬ。どうか、どうか許してくれ。


 ミルナリスから彼等の来訪を聞かされた時、過去の過ちから逃れられると信じ、そしてそれは叶えられた。
 ただの人ならば決して叶えられなかっただろう。苦界の中で死した過去の自分達の思いが漸く成就した事を思えば、過去の全てに溜飲を下そう。
 しかしこれより新たな苦界が始まるのだ。またしてもこの苦しみが、次の世代へ受け継がれていく。何と滑稽な姿だろう。
 それでも、抗えない摂理の中で王として生を受け、そう生きるしか他はない。踏み止まらなければならないのなら、心の奥深くへ隠し通すしか方法がなかった。
 有り得ない事と知っていながらも、信じたい友の帰りを見るまでは……。





 木々の生い茂る微かな隙間から僅かばかりの陽の光が射し込もうとする頃、王城の一番高い塔の最上階から上空を見上げると、其処には久しぶりに見た青空が広がっていた。