刻の流狼第二部 覇睦大陸編
そんな感じたくもない疚しさに耐えきれなかったソルティーが、逃げるように部屋を後にしたのは、恒河沙達の会話にハーパーまでもが巻き込まれ出した最中であった。
ほぼ均一に並ぶ木々の波。そこから顔を覗かせているのは、人の造り出した城と、古より世界に在り続ける森の王。
それが見渡せる塔最上階からの眺めは素晴らしかったが、ある意味では自然の牢獄を思わせた。
目を楽しませる動きは風のみで、耳に聞こえるも風。外の者であるなら、二日もあれば飽きてしまうだろう、ゆっくりとした流れるだけの月日。静寂だけが支配する世界に耐えられるのは、真実アスタートだけかも知れない。
それを選ばれたと言うのか、捕らえられたというのかは、立場のみが決める事だろう。
少なくとも今バルコニーから森を見つめているソルティーは、最初にここへ来た時は前者の考えだった。
世界中の誰もが生まれながらに知っているように、森は特別の存在。選ばれた者だけを迎え入れ、世界のありとあらゆる脅威から護ってくれる。争いもなく、災禍さえも防いでくれる森は、そこへ辿り着けぬ者にとっては、楽園を思わせるに充分だろう。
だが結局は、それこそが無知なる者の幻想にしか過ぎなかった。
蒼陽に照らされた森の姿は、凍えるように冷たくも見え、真実は此方なのかも知れないと感じる。
――ウォスマナスに何があった。
煙草を薫らせながら見つめる大樹の姿。その前へ行った時でさえ、何も感じなかった。
本来そこに在るべき存在を示す、何もかもを。
例え森であっても月日は流れていく。変化を含む流れの中に於いては、アスタートも例外は許されないのだろう。しかし決して変わってはならない物が、カリスアルには存在する。
それが神であり、森であった。
「森の中で煙草を吸うなどとは、大した度胸だ」
バルコニーの柵に寄りかかって居たソルティーに、背後から何の前触れもなく呆れを含む声が掛けられた。
さして驚く素振りもなく振り返ると、今にも溜息を吐きそうなニーニアニーが立っていた。
「単なる腹いせだ、気にするな」
「しかもその皿……、一枚が幾らするのか知っていて使っているのか?」
割と目聡いニーニアニーが指さしたのは、柵に置いてあった灰皿代わり。
「もっと高価な皿があるなら使ってやろう。それに私から言わせて貰えば、客室に灰皿一つ置いていないなんて、ここは安宿以下だ」
「ここは森だぞ、火の使用は厨房を除いて厳禁だ」
「一国の王が、煙草の一つや二つで女々しい」
「まったく、つくづく昔と変わってしまった。あの頃は素直な男の子だったのに」
ニーニアニーは情けないと首を振り、ソルティーから少し離れた場所に置かれた椅子に腰掛ける。
「子供の頃の話を持ち出さないでくれ。環境が変われば自然に変わるさ、望む望まざるに関わらずな」
たった一人が自分を変化させているのに気が付いたのも、その変化が心地よい物だと知ったのも最近の話だが。
「それに、別に素直だったとかじゃなくて、あの時は貴方が恐かったんだ」
「ほう、それはそれは」
「態度はでかい、声も大きい、何かあれば直ぐに怒鳴り散らして、子供心に逆らえば捕って喰われると感じていただけだ」
「ほう……それは…それは……」
昔話に笑みを浮かべていたニーニアニーの額に、ピクピクと震える筋が浮かび上がる。
彼に対して腹に一物も二物もあったソルティーだが、流石にそれを見て咳払い一つして話を逸らした。
「それはそうと、何か用でもあるのか?」
起きているのは見張りの兵だけだろう真夜中に、共も連れずに王が訪れる理由が、ただの小言や世間話とは思えない。
ニーニアニーはソルティーの考えに正解を与えるように、真剣な表情を浮かべながら立ち上がった。
「ミルーファを連れ戻してくれた事を感謝する」
片手を胸に当て微かに頭を前に傾け、瞼を下ろす。
アストアの正式な辞儀は長く、そして滅多に行われない事は知っていた。。
「珍しく神妙だな。良いのか、そんなに軽々しく人に頭を下げて」
「家臣に見せたくないから、こうして一人で参ったのだ。それ位は察しても良かろう。しかし、余にはあれ以上に大事な女は居ない事も確か。頭を下げる事を厭う理由は、在りはしない」
真剣に語るその言葉が彼の外見に大人すぎて、思わずソルティーは笑い声を漏らし、その事に対して目つきを鋭くするニーニアニーに素直に謝る。
昨日あれだけの言い争いを周囲に見せた二人であるのに、今はその片鱗さえも感じられない。
特に、自分へ向けられていたソルティーの剥き出しの憎しみが消えていた事に、ニーニアニーは自然と納得していた。
「取り敢えずは、理解して貰えた様だな」
ニーニアニーがまた椅子に座り直し、主語のない言葉を使うと、煙草を揉み消しながらソルティーは頷いて見せた。
「何時からだ?」
「あの日からだ。あの日、主は此処を護る為に力の殆どを使い果たした。それからは何十年に一度目覚めるかどうか。目覚める間隔も長くなってきておる。それでもサティロス様に比べれば、まだ存在を確立させているだけ良いのかも知れぬが」
「それで長か?」
「そう思われても仕方はない。しかし、余が彼女と出会った頃はまだ彼女は長ではなかったし、次なる長とも知らずに出会った」
それから深く呼吸をしてから、ニーニアニーはソルティーに気弱な顔を見せた。
「信じるか、余がミルーファに一目惚れをしてしまった等と……」
それを一番信じていないのが自分だと言うように、もう一度息を吐き出す。
「確かに彼女が長だと知ってからは、お前が考えた事を余も考えた。いや、誰もが考えているであろうな。王と長が統合されれば、何かが変わるかもと」
変わらないかも知れない不安は、確かにニーニアニーも感じている。
それでも何かをしたいと言う気持ちが、彼なりの運命への逆らい方だった。
「それ程深刻なのか? ウォスマナスは」
なんの力の源も感じなかった大樹を思いだし、それがどれ程この森に影響するかを考える。
森と言う神の存在がアスタートの心の拠り所になっている事もあるが、それ以上に神の力が弱まれば、森への外からの介入が始まるかも知れない。
長く続きすぎた平穏は、人の本能から牙を抜いてしまう。もしも今ウォスマナスの事が知られれば、アストアは未曾有の混乱に突き落とされるだろう。それを何としても食い止めなくてはならないのが、王と長の役目であった。
「前回の目覚めより四十年近くとなるが、今も目覚める気配すら感じられぬ。長ではない余にも判る程、主の力は眠りに就いている今でさえも衰えている。どうすれば良いのか判らぬ」
「オロマティスとオレアディスの事は知っていたが、ウォスマナスもか。一度他の奴等も確かめないとまずいな」
吸い始めて六本目の煙草を銜え、前髪を掻き上げながら深刻に進んでいく事態に戸惑いが隠せない。
ソルティーの知っている限りでは、七神の内三神が眠りに就いている事になった。残された四神だけで、何時まで均衡が保たれるかが不安だ。いや、その動向が気掛かりだった。
ソルティーの思索に取り残されたニーニアニーは、関心と呆れが一緒に浮かんだ顔で彼を見つめていた。
作品名:刻の流狼第二部 覇睦大陸編 作家名:へぐい