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刻の流狼第二部 覇睦大陸編

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 これ以上ない程三人を馬鹿にした表情と言葉に、ハーパーが止めなかったら恒河沙は走り出していたかも知れない。須臾にしても文句の一つも並べていただろう。
 しかし自分達を取り囲む兵や術者を見渡し、その総てが異様な緊張感を持っているのを感じる。ここで自分達が何かをすれば、恐らく一番被害を受けるのはソルティーに間違いない。
「……了解」
 本当に心の底から渋々とハーパーの言葉に頷き、取り敢えずソルティーの後ろまで彼等は進んだ。
 目の前にまで来た彼の背中は、肌で感じられるほど怒りに満ちていた。
「それでは話を進めようかソルティアス」
「……っ」
「最初に告げて置くが、余が貴様を此処へ置くは本意ではない。――貴様も大層な者に気に入られたものだ。彼女の頼みだから仕方なく此処へ置くのだ、感謝するのだな」
 絶えずニーニアニーを見据えるソルティーの視線には、言葉に出来ない程の怒りが込められていた。その突き刺さる様な視線を軽く流し、面白い見せ物を見る目をニーニアニーは返す。
「それ程余が憎いか?」
「今それが出来るなら、この森総てを滅ぼしてやりたい程な」
 ソルティーの本気の言葉に広間中が緊張する。
 何人かが警戒心から自分達の持つ武器に手を伸ばし、それをニーニアニーは落ち着いた顔をして片手で制する。
「それはそれは、罪も無い者を殺すのか? いや、貴様なら出来るであろうな。今までに何人の者を殺めてきた? 何十か? 何百か? 此処へ逃げ込んだのも、その為であろう? 既に貴様は、王殺しの手配者としてこの国にも知らせが来ている。此処でもそれをするか?」
「そうだ、既に私の手は落ちる事の無い血にまみれている。だからこそ人を殺す事に何の躊躇いも無ければ、罪が無いと嘯く者を殺す事など造作もない」
「罪が在ると言うのか? 何処にだ、我等が何をしたと言うのだ?」
 二人が何を言おうとしているのかを、この場に居る者達の殆どが首を傾げる風に聞いている姿に、ハーパーだけが疑問を感じていた。
 完全に前が見えなくなっていたソルティーが、それに気付く事はなく、恒河沙に至っては二人が何を話ているのかさえ理解できなかった。そして須臾は、この会話を今までの自分の得た知識と照らせ合わせながら、次第に自分の置かれている状況の不思議さに悩みだしていた。
「何もしなければそれで済むと思っている方が間違いだ。お前達はあの日何をした、何故今も尚此処で安穏とした生活をしている。主に頼り、護られ、お前達はただ隠れていただけではないか。そして今でさえそれを変える事無く生き続けている。あの日何が在ったかを知りながら、お前達は何をした!」
「それでは貴様は何だと言うのだソルティアス。どうして貴様は此処に存在しているのだ。確かに我等は知りながら何もしない。しかし、それを貴様に言われるとは心外だ。我等と貴様自身にどれ程の違いが在ると言うのだ。我等は我等を護り通しただけの話ではないか、そして貴様も護られる側の者でしかなかった。だから此処に今存在出来る。そうではないのか? それを今の我等に向かって言うなど、馬鹿げているとは思わないのか」
「私は逃げ出した訳ではない!」
 必死に言い聞かせる様に、ソルティーは喉が痛むほどの大声を張り上げた。
「結果論の話をしている。貴様が逃げていないとすれば、何故、今、此処に存在する。貴様は誰の上にその身を置いているかと言っているのだ!」
 ソルティーを指さし恫喝した後、言葉を失った彼をニーニアニーは嘲笑した。
「我等は我等を守り抜いた。喩え主の恩恵に縋る愚かさであっても。――では逆に問うてやろう。貴様は誰を護る事が出来た? 貴様に我等をどうする資格が在るのか? 在るなら言え、余は退屈な時間を持て余している最中だ、聞いてやろう」
 ソルティーが奥歯を噛み締め、力の限り相手を見据える事しか出来なくなったのは、ニーニアニーの言葉が総て正論だったからだ。
 しかしその言葉に溜飲が下がらないのは、今となっては事実を知る者が自分とハーパーを除いては、目の前に居る少年の姿をした者しか居ない事だ。
 ニーニアニーは答える事の出来ないソルティーに、勝ち誇った笑みを浮かべ、早々に話を打ち切った。
「まあ良い。ソルティアス、交換条件だ。貴様がアストアを抜ける事を許す変わりに、余の命に従って貰う。タランタスを呼べ」
 その呼び掛けに兵の一人が広間を出る。
「先に言って置くが、貴様に異を唱える権利は存在せぬ。皆無だ。彼女の頼みはカラより貴様を逃す事だけ、それ以降の事は余に任されて居るのだからな。貴様を好きに出来るとは、思っても見なかったがな」
「ブルコス・タランタスを連れて参りました」
 兵の言葉にニーニアニーが頷き、その老人はソルティアスの横まで杖をつきながら連れてこられた。
「ソルティアス、貴様にはタランタスと共にミルーファを助け出して貰おう」
「助ける?」
「タランタスの娘、そして余の妃候補だ。昨日から行方が判らぬのでな」
「あんたが嫌になって飛び出したんじゃないか?」
 静まり返った広間に恒河沙の声が響いた。
 いい加減腹が立って仕方がなかった。どういう経緯からの話かは恒河沙には理解出来なかったが、ソルティーが言い負かされているが途轍もなく腹立たしかった。
 自分を喧嘩腰に見つめる恒河沙を、ニーニアニーは別に気にする風でもなく、ただ彼の顔を見て多少の嫌悪感を見せた。
「確かに婉曲した物事ならその言葉も考えられるが、事はその様に単純ではない。ミルーファが消えた少し前から政務官の一人が行方不明だ」
 どう見ても自分より年下に小馬鹿に言い返され、胸の中にありったけの悪口を集めたのに、その口をハーパーに塞がれ、ニーニアニーの言葉を継いぐのはソルティーになった。
「その政務官が、お前の許婚とやらを連れ去った確証でも在るのか?」
「政務官が秘術狂いで、ミルーファは長だ。これ以上の確証は無いだろう」
「私よりもお前が兵を従えて連れ帰った方が早いのではないか」
「もとより承知している。その準備もしていたが、貴様が現れたのだ、わざわざ余の兵を汚す事も無いだろう? 今の貴様だ、一人くらい殺しても変わりはなかろう。余の兵は戦い慣れて居らぬ」
 自分達の手を汚したくないとニーニアニーは言い切り、酷薄な笑みを見せる。
「ミルーファを連れ戻す件は、勿論貴様一人に行って貰う。仲間を連れて行かれては逃げ出す恐れがあるからな。なに、政務官の行く場所は検討がついている。貴様に手間はとらせぬよ」
「エスター様、我等を人質になさるおつもりか?」
「そうだ。特にダブル、お前はソルティアスにとってこれ以上ない程の人質だ。お前の大切な主人を、森で永久に彷徨わせたくなければ、おとなしく部屋に繋がれて貰おう。それが嫌ならば、森の戒めがお前を包むだけだ」
 圧倒的に優位でありながら、尚安全に事を運ぼうとするニーニアニーに吐き気がする。しかし彼の言う様に、森に放り出されて無事に済むとも思えない。
 少なくとも河南の森とこのアストアの森は違い、彼等は此処へ足を踏み入れたのはこれが初めてだ。何が起きるか想像も出来ず、更にハーパーに置いては、森との相性が最悪である。何かが起きる前に倒れてしまうだろう。