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刻の流狼第二部 覇睦大陸編

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episode.15


 森の守護者は王だ。
 それもカリスアルそのものを支える精霊神が一人、樹霊王ウォスマナス。それ故に森は不可侵の掟に護られ、生きとし生ける者総てを見定める事が出来る。
 選ばれた民と、選ばれた者だけが、足を踏み入れる事の赦された、神聖且つ未知の領域。
 森は畏怖と尊崇の念を同時に存在させ、掟に背く者を死へと誘う。
 理の摂理が如くに、抗う術は存在しない。
 産まれ出で、存在する瞬間に刻まれているその恐怖に、人が勝ち得る日が訪れる事は、永久に無いだろう。


 * * * *


「ハァ……ハァ……ッ……な、何なんだ……あれは何なんだ……」
 男は柱の陰に隠れながら、恐怖に打ち震える呟きを無意識に漏らした。
 彼の体には、夥しい血が付着している。彼の血ではない。しかし彼が流したかのように、顔には血の気はなく、視線も何処か虚ろであった。
「――ヒッ!」
 遠くで聞こえた誰かの悲鳴に、男は耳を塞いだ。
 ガクガクと震える体をより小さくし、世界からさえも隠れようと必死になっていた。

 ああ、また悲鳴が響いた。
 最初の悲鳴からどれだけの時が流れただろう。

 男が仲間と最初に見たのは、折り重なった死体であった。全部で八つ。次に見たのは五つ。次に六つ。
 どれも死体と呼べる物ではなかった。ただの肉塊だ。かろうじて頭部の数で、消された命の数を数えるのみ。込み上げてきたのは怒りではなく、恐怖と嘔吐物だけだった。
 城内で甲高い女の悲鳴が聞こえ駆けつけた時には、更に我が目を疑った。
 踏み出した足がビチャッと水溜まりに入った。屋根も壁もある城内で、微かに粘つく水溜まりに。
 その赤黒い大きな水溜まりの中に、所々他の色が浮いていた。最初にその形がハッキリしたのは、おそらく指だったかも知れない。その次は頬から鼻に掛けてだったかも知れない。
 目だけが何かを見つめ、片方の乳房だけが浮かんでいる所もあった様な気がする。

 ああ、これは夢だ。
 悪夢に決まっている。
 それでなければ……。

「クソ、お前達何をしている!!」
 一瞬の逃避という夢から強引に連れ戻された男は、新たに駆けつけてきた仲間に駆り立てられるまま、走り出した。
 血を跳ね上げ、肉片を踏み締めながら、夢から悪夢の中へと飛び込んでいった。

 何処をどう走ったのだろうか。城内は知り尽くしているというのに、判らなくなった。何故判らない。何故行く先行く先に、こんなにも訳の判らないモノが落ちている。こんなにも訳の判らないモノが流れている。

 自分は何を見ている。
 自分は何を踏んでいる。
 自分は何を聞いている。

 何故、何故、何故!!

「い、居たぞっ!! 彼奴だっ!!!」

 何故この夢は覚めてくれない。
 いや、きっと覚める。
 ここで終わる。

 仲間が一斉に夢から覚める為に向かっていった。

 ほら、胴体から首を切り離し、背中から剣を生やし、右の手足だけになって、小さく切り刻まれて、叫びながら、泣きながら、笑いながら……。

「クク……ハハハハハハハハ」

 ああ、違う。
 笑っているのは、悪夢の方だ。
 黒く光る剣を両手に持ち、黒い瞳で自分を見つめる悪夢の方だ。早く夢から覚めなくては。覚めるにはどうすればいい。早く思い出せ。悪夢が近付いてくる。全身を鮮血のような赤に染めながら、恍惚の笑みを浮かべながら、悪夢が近付く。

「逃げろっ!!」

 何故、どうして、あと少しで悪夢に飲み込まれて夢から覚められるはずだったというのに……。

「今だっ!!」

 逃げれば悪夢から覚めるのか。
 どうして走っているんだ。

 早く覚めてくれ!!

「……ヒッ!」

 ああ、振り向かなければ良かった。振り向きさえしなければ……。

「何故だっ?! どうしてだっ!!」

 黒く輝く剣に飲み込まれる劫火。そう、全ては等しく悪夢に飲み込まれていくのだろう。
 飲み込まれて漸く悪夢から覚めるのだ。
 他に方法はない。此処に希望は必要ない。ただ、そう、ここから抜け出すのだ。


 ああ、また悲鳴が響いた。


「ヒッ!!」
 気が付けば男は此処にいた。
 夢から覚める方法を求めながら、多くの悲鳴を聞き続けながら、悪夢が奏でる笑い声を聞きながら。
 だが彼の夢だけがまだ覚めない。
 覚めないまま静寂が訪れてしまった。このまま永久に悪夢に支配された世界が続くかのような、空気さえも凍り付いた様な静寂が。

「……みんな……飲まれたのか……」


「ああ、貴様が最後だ」


 男の虚ろな両目が最後に見たのは、自分を微笑みながら見下ろす悪夢が振り下ろした、黒い輝きを放つ剣だった。

 彼の悪夢はやっと終わったのだ。





――人は簡単に死ぬ。深く斬られれば、血が噴き出し、意識が無くなる。



――人は簡単に殺す事が出来る。首と体を切り離せば、命と肉体も切り離される。



――なのに私は……。



 王城の庭の一角で手が振られ、ハーパーはそれに応じて体を降下させた。
 近付く毎に鼻を突く異臭は血の臭い。
「待たせたな」
 待ち合わせに遅れただけの様な、平凡な言葉で彼を迎えたソルティーの手は、既に何処かで洗い終えているのか、見た目には汚れは無かった。
 しかし、最早洗い落とす事もままならない程に、誰とも知れない血を吸い込んだ衣服は隠しようがない。
「……無事でなにより」
「心にも無い事は言うな。それより早く此処から出たい」
 笑みさえ浮かべながら駆け寄る体を抱き抱え、言われるまでもなく早々に立ち去るべく、暗闇の空へと舞い上がる。
 眼下に見える場所だけでも、数え切れない屍が地面に倒れている。生きている者が果たして存在するのか疑問だが、敢えて考えないように努めた。そうしなければ、この城に訪れた“悪夢”と対峙するは、己となる。
――我には、出来ぬやも知れん。
 止めると誓った。だがその時が訪れても、今この時の様に、数多の人の命よりも、今この腕に在る狂気を選ぶだろう。
 それこそが狂気だと言われても……。
「これよりどうするのだ?」
「そうだな、宿に置いてある荷は捨てられない物も入っている。それに、須臾に後金を払わなければならない。城がこの状態なら直ぐに追っ手は出せないだろうから、宿に一度戻ろう」
 疲れは感じていない。いや、寧ろ何かの命を消す度に、快楽とも呼べるかも知れない力を感じた。
 それだけだ。感情など浮かんではこなかった。
 ただ其処に在った物が、自分の手によって無くなった位にしか感じていない。驚愕や恐怖に歪んだ顔を見ても、逆に何を思えばいいのかと誰かに聞きたい位だ。
――人に生きて欲しい私と、人を殺す私のどちらが本当の私なのか。
 城に降り立った時から今までの間の記憶が、途中からは霞が掛かったように、まるで他人事のような感じで残っているだけ。
 何度か自分では無い時があったのだと知っていても、それをどう思う事も無かった。そもそも境界線など存在しない。
 ただ老い耄れた老人に剣を差し込んだ時、自然と笑いがこみ上げてきた。その時は、確実に自分だったのだと判っていた。
 その姿が本当の自分自身なのだと思うと、悲しいと思うよりも気が軽くなった。