刻の流狼第二部 覇睦大陸編
何処をどう走ったのか、ミルナリスには検討がつかなくなっていた。
剣は女の彼女には重く、両手で抱えても気を抜けば滑り落ちてしまいそうだ。それでも懸命に走り続ける彼女の後ろには、赤い点が幾つも落ちていた。それは彼女の右肩から流れる血の軌跡であり、突き刺さった矢は足を踏み出す度に痛みを放つ。
しかし進む毎に足は重くなり、次第に目が霞んでいく。
――まだ! これを渡さなきゃ!
最後の一滴まで気力を絞り尽くすように奥歯を噛み締め、微かに見えた外の景色に突進した。
「居たぞっ! 此処だ、やっぱりティルフィを持っているぞ!」
「殺せっ!」
「逃がすなっ!!」
抜き身の剣を持つ兵達がミルナリスに迫る。
「先に剣を奪えっ!」
酷く兵の動きがゆっくりに感じた。
兵の腕がミルナリスから剣を奪おうと伸ばされ、それを渾身の力で振り払い、もう一度逃げようとした瞬間、彼女の背中に熱い一線が通過し、視界が歪んだ。
「馬鹿者っ! 何をしているっ!!」
「申し訳御座いませんっ!」
「全員堀へ降りろ! 女は堀へ落ちたぞっ!!」
深夜になっても四人が眠る様子は無かった。
ソルティー達が帰ってからもう一度ドーリが宿を訪れ、ミルナリスが家にも帰った様子がない事を伝えた。
彼女ももう半分以上諦めている様子で、須臾達は必死になって励ました。
「どうすればいい? このままミルちゃんを放っておくの?」
何度も須臾に尋ねられ、どう答えを出して良いのかソルティーには判らなかった。
総ての原因と責任が自分に在るのは承知している事だが、自分達が乗り込めばどうなるか分かり切っている。だから須臾とて「城に行こう」とは切り出せずにいた。
言葉も出せず、ただ、溜息だけを噛み殺して時間を過ごす以外に、ソルティーには何も思いつかなかった。
祭りの喧噪が僅かに聞こえる部屋に、廊下の軋みが聞こえたのは長い沈黙が続いた後だった。
扉の近くにいた須臾が扉を僅かに開けて、直ぐに全開にした。
「ミルナリス!」
扉の向かいの壁に立ち尽くす彼女の姿は、全身をずぶ濡れにして、血の気を完全に失い掛けた状態だった。
「どうしてこんなっ!」
「……グ…ル…」
須臾の肩越しに見えたソルティーの姿にミルナリスは僅かに微笑み、須臾の差し出した腕の中に崩れ落ちる。
そうしてやっと壁に血で描かれた模様と、廊下に広がった血溜まりを見つけた。
「ミルナリスっ!!」
「しっかりしろ!」
恒河沙も慌てた顔付きで彼女の側に立ち、何度も彼女の名前を呼びかける。だが誰の目にも、彼女の命がもう消えかけている事がハッキリと映っていた。
「ソルティー、ミルナリスが…」
恒河沙が振り返り見たソルティーの表情は、総ての感情が消えている様に思えた。
驚愕も怒りも悲しみさえも無いままに、ゆっくりと浅い息しか出来なくなっているミルナリスの側まで来て、彼女の持つ剣を見つめる。
「……こ…れ…でしょ」
「ああ」
「良…か……」
切れ切れに話す声と共に、彼女の命が消えていく。
それでもミルナリスの顔は微笑みを絶やす事は無い。痛みも、苦しみも、総て麻痺してしまったかのように。
「……すこ…しは、役…たて…」
その返事をソルティーは言葉にしなかった。
――何も考えるな。感情を殺せ。心を凍らせろ。
ソルティーに向けて、少しだけミルナリスの手が挙げられる。その手を握り返して欲しいと望む、彼女の最後の力をソルティーは何も言わず、指の先すら動かなかった。
「どうして!」
全く動こうとしないソルティーに恒河沙が詰め寄った時、その手は静かに床に落ちた。
「ミルナリス? ミルナリス!」
「嘘だろ?! どうしてっ! まだ駄目だよっ!!!」
息を止め、鼓動を止めたミルナリスを須臾は何度も揺すった。
「あんなに舞台楽しみにしてただろ? 僕はまだあの衣装見ていないんだよ? こんな中途半端にどうして終わらせるのさっ!」
――私の所為か……、私の…。
須臾の与えた振動で、剣が床に落ちる。
――こんな物の所為で、また人が死んだのか?
《主……》
《判っている》
――心を閉ざさなければ。
何も無かった事の様に、ソルティーは剣を拾う。
「ソルティー? その剣って……」
「ああ」
「その為に? そんな剣一つの所為でミルナリスは死んだのか?」
「そうだ」
血に濡れた剣と腰の普通の長剣と付け替え、ソルティーは恒河沙達に背を向けた。
この場から逃げ出すように。
「何処に行くの?」
自分の服にミルナリスの血が滲むのも構わず、彼女を抱き続ける須臾が漸くソルティーに言葉を投げ掛ける。
必死に涙を堪え、震えそうになる声を押さえ込み、須臾なりの気遣いを持っての問い掛けに、ソルティーは一端立ち止まりはするものの、振り返ることなく抑揚のない言葉を返した。
「外の様子を見てくる。彼女が此処に来るまでに、誰にも見られていないとは思えないからな。此処で捕まる訳にはいかない、逃げる用意を済ませて置いてくれ」
「どうして、ミルナリスが死んだのに、ソルティーの所為で死んじゃったのに、どうして逃げるんだよっ!」
恒河沙にしてみれば、今のソルティーの行動はどれも信じられない暴挙だった。しかし、現実に彼は、ただの一度もミルナリスを見ず、剣だけにしか興味が無い様に見えた。
「待てよっ!」
どうしても許せなかった。
幾らなんでもこの仕打ちは許される行為では無かった。
廊下から消えたソルティーの後を恒河沙は怒りに任せて追いかけ、その後ろを複雑な顔を浮かべたハーパーが追う。
須臾だけがミルナリスの元で、彼女の乱れた身なりを整える為に残った。
恒河沙がソルティーに追いついたのは、彼が宿の横にある路地に曲がった所だった。
「待てよっ!」
「何か用か?」
腕を掴んで無理矢理振り向かせたソルティーには、依然悲しみも怒りも浮かんではいない。そして吐き出される声も、酷く落ち着いた、聞きようには冷酷なものだった。
「知ってたのか? ミルナリスがその剣を盗みに行ったの、ソルティーは知ってたのか?」
「いや、居ないと聞かされた時にそう思っただけだ」
恒河沙と目を合わさず、状況だけを語るのは、彼の感情に引きずられたくないからだ。
「だったらどうして」
「どうして話さなかったのかか? ……いや、助けに行かなかったのか、か?」
恒河沙の言葉をそのまま己に対する問い掛けに変えるが、彼の心が僅かでも動く気配は感じられなかった。
「確かに、そうする事が出来れば楽な話と言えるし、美談にも出来るだろうが、行ってどうなる。あの城に何百の兵が居ると思っている。連れ戻しに行った所で、総てがお前の想像している通りに進み、彼女が無事に帰れたと思うのか?」
「そんなっ! ……そんなのあんまりじゃないか! ミルナリスはソルティーの為に行ったのに!」
信じたくなかった。自分の知るソルティーが、優しさの欠片も無い言葉を吐き捨てるなんて、信じられなかった。
だからどうしても、彼が隠している筈の本心を聞きたかった。
作品名:刻の流狼第二部 覇睦大陸編 作家名:へぐい