刻の流狼第二部 覇睦大陸編
見ただけで食欲を減退させる蜜に光り輝くトクスが、次から次へと恒河沙の口の中に入っていくのを見さされるだけで、甘党ではない者への拷問だったろう。しかもソルティーは、トクストクスの前にも恒河沙がどれだけ食べているか見ている。
此方は殆ど何も食べていないというのに、精神的な疲労だけでお腹一杯も一杯だった。
正直、当分は恒河沙と同じテーブルで食事をしたくないと思ってしまうのは、誰もが許してくれる致し方ない感想の筈だ。
「須臾達帰ってるかな?」
「多分」
「明日は須臾とハーパーも一緒に行けると良いな」
「……そうだな」
――明日は須臾一人に任そう。
ついでにトクストクスの名前を伏せて店を教え、自分と同じ目に遭わせると堅く心に誓いを立て、真剣に明日恒河沙を誤魔化す口実を考えた。
街はまだ祭りが続く様子で、このままだと夜通しこの喧噪は続くだろう。たった数日しかない、音色と唄の流れる道を歩き、二人は漸く宿に帰り着いた。
そして部屋に帰るなり須臾に聞かされた言葉に、二人は呆然とする。
「ミルちゃんが打ち合わせに現れないって。夕刻近くに女将さんが来て、捜してるから見つけたら教えて欲しいって。街で見なかった?」
「ううん、見てないぞ。会ったら絶対に引っ付いてくるもん」
「あの人混みの中で判る筈がない」
「そう…。どうしたんだろ、あのミルちゃんが、舞台の打ち合わせを放り出すとは思えないし」
「なぁ須臾、またあん時みたいに」
「かも知れない。……女将さんもそう考えてた」
心配と不安を抱えた言葉を須臾は発し、ハーパーも恒河沙もそれは同じだった。
「ソルティー……」
自分達はどうすれば良いかと問いかけの視線が、一斉にソルティーへと向けられた。
しかし彼は、黙って天井を見上げるだけだった。
「おやすみなさいグルーナ様」
最後に聞いた声。
最後に見た顔。
その中に潜んでいた決意が、思い出せばハッキリと見えた。
――どうしてこんな馬鹿な真似を……。
剣の話を彼女は聞いていた。
彼女だけが、大手を振って王城に入る事が出来た。
「本気で好きだから、あなたの必要な人になりたいだけっ!!」
たかが一瞬の出来事だ。顔を合わせた数も、言葉を交わした数も僅かしかない。それなのに彼女は、微かな衝撃で壊れてしまいそうな程真っ直ぐに……。
「あたしはずっとあなただけを好きでいる」
――ミルナリスッ!!
鍵を掛けられた扉の部屋は窓もなく、閉鎖された空間の中でミルナリスは薄い衣装を手に佇んでいる。
「何これ、最悪に悪趣味ね。あたしは体を売っているんじゃない。あたしが見せるのは踊りだっていうの」
体の線も簡単に透けて見える衣装。それをいけ好かない兵士に手渡され、着替えろと命令されてこの部屋に押し込まれたのは、半時ほど前だ。
入る前に一度は突き返し、こんな物は衣装でもなんでもないと訴えたが、それは暴力で返された。
――でも、着替えなきゃ、此処から出られない。
悔しくて悔しくて悔しくて、きつく唇を噛み締め、屈辱で流れ出そうになる涙をぐっと堪え、ミルナリスは震える指で服を脱ぎ始めた。
「王の恩命、有り難く頂戴するんだな」
「ふんっ、何が恩命よ! こう言うのは、色狂いの我が儘って言うのよ!」
着替えが終わった合図に扉を蹴飛ばした後は、二人の兵士に連れられ長い廊下を歩かされた。
「貴様! 何処まで……」
「まあ言わせておけばいい。どうせ自分から来た奴だ、口ではどう言っても王には逆らえないと判って言っているんだ」
「……はっ、ただの女の強がりって訳か。何処までそれが続くか見物だな」
――勝手に言ってなさい。あたしは別に王に負けた訳じゃないんだから。
廊下を進む間に投げ掛けられる不躾な、彼女を見下す視線。
見せ物を見る好奇の眼差しを、ミルナリスは胸を張って堂々と受け止めた。
――あたしは負けない。絶対にこんな奴等なんかに負けたりしない。
繰り返し心の中で呟き、踊り子として最後になるかも知れない舞台に足を踏み入れた。
しかし其処は舞台には程遠い、悪趣味な造形物だけが置かれた場所だった。
「漸く余の持てなしに応じてくれたのだな。しかもこの様な時に。愚民共の祭りに労しなくてはならぬ余を気遣ってくれとは、心憎い奴よ」
広間の中央に無理矢理跪かされたミルナリスの前には、年老いただけのなんの威厳も存在しない男が、豪勢な椅子に腰掛けていた。その周りには何人もの尻尾を振るだけしか脳のない家臣が立ち、誰もが同じ好色な瞳でミルナリスの体を眺めていた。
ミルナリスにとって、これ程最低な舞台は無い。
「何を黙って居る。余はそちの声が聞きたい」
「………」
「おい、王の御言葉が聞こえぬと言うのか!」
横に立つ兵の一人がミルナリスの肩を掴む。
「まあ良い。この様な場である、下賤な場所のみしか知らぬのだから、緊張しても仕様の無い事よ」
「は。王の恩情在る御言葉、喜んでお受けしろ」
――何が愚民よ、何が下賤よ、あんた達の方がよっぽど、下品で、野蛮で、馬鹿で、みっともないじゃない!
「さあ、楽師も待ち侘びて居る、お主の舞、じっくりと見せて貰おう」
「判り…ました…」
ゆっくりとミルナリスは立ち上がり、そして高らかに右手を頭上に掲げた。
――これが最後じゃない。最後の踊りになんかにしない。でも、グルーナ様の為に、最高の踊りを踊ってみせる!
ミルナリスの計画は、その通りに進んだ。
体を誇張する踊りを踊り、王の傍らに置かれた剣がソルティーの持っていた剣と同じだと確認した。
後は時を待つだけだった。
――初めてじゃ在るまいし、何を悲しんでるのよ。元々お綺麗な体でも無いんだから、野良犬に噛まれたと思えばいいだけじゃない。
王の存在そのままに、威厳の欠片もないその男の部屋で、ミルナリスは逃げ出しそうになる自分を、何度も叱りつける。
――もう少しだけの辛抱じゃない。少しだけ我慢して、いつもみたいに忘れれば良いだけじゃない。
「ミルナリス待たせたね」
共の者を引き連れ、好色な目を隠そうともせず王は部屋に現れた。
――我慢すればいい。一度だけ我慢すれば、あたしはグルーナ様の役に立てる。そうすれば、ほんの少しでもあたしを好きになってくれるかも知れない。だから、我慢すればいい。
「どうしたのだい? そんなに震えて」
――触らないで、あたしはあんたの物じゃない!
「そち達は下がっておれ」
「しかし」
「よいよい、この様に震える手で何が出来よう。そち達が居れば、何時まで経っても恐れが消えぬではないか」
――違う! あたしは怖がってなんかない! あたしが震えてるのは………。
「さあ、邪魔者も消えた。これから今一度、そちの舞を見せておくれ」
――グルーナ様……グルーナ様、グルーナ様っ!!
「女が逃げたぞっ! 捜せっ、捜し出し、ティルフィを取り戻せっ!!」
「殺しても構わん! なんとしても見つけだすのだ!」
男達の怒声が王城に響く。
何十人もの、足音が廊下を駆け巡る。
王の寝室から消えたミルナリスと共に、カラの宝刀ティルフィが消え、王城をひっくり返す勢いで捜査網が引き詰められていく。
作品名:刻の流狼第二部 覇睦大陸編 作家名:へぐい