刻の流狼第二部 覇睦大陸編
その事をソルティーが言葉にしたのは今日が初めてだったが、総てを承知の上でハーパーは彼に従っている。勿論それを望んだ事は一度たりとも無かった。ただそうせざるえない時、それを行うのが自分の使命だとも知り尽くしていた。
「リグス……やっと帰って来たんだ、やっと……」
そう言い残し、ソルティーは緩やかな眠りに落ちていった。
しかし記憶に残る彼の故郷の土は、彼の記憶と同じ様に、まだ遙か彼方。
「ソルティー、着替え持ってきた……」
左手にソルティーの服を、右手に食事を抱えて帰ってきた恒河沙に、ハーパーは指を口先に当て、静かにと促す。
「また?」
「否、この度は普通の眠り故、大事無い」
「あうぅ、せっかく食べ物持ってきたのにぃ」
椅子の上に服を置きながら、食事とソルティーを見比べる。
「それはお主が食すれば良い」
ハーパーはソルティーの眠りを邪魔しないように恒河沙を部屋の外へ送り、自らも廊下へ出ると扉を閉める。
「ソルティー大丈夫?」
「お主は何度同じ事を我に言わせるのだ」
「ごめん。でも、心配だから」
扉を見つめ、その先で眠る者を意識して言った。
強いと信じていたソルティーが、急にこんな風になるとは予想していなかった分、恒河沙の不安は大きい。特に自分が病気らしい病気をしたことがない為に、余計に彼の様子が気に掛かるのだ。
「お主は主の事をどれ程思っている? 少しは好意を持っているか?」
「こ・う・い? 何それ?」
いきなりの質問に答えようにも、まだ知らない言葉に首を傾げた。
「好きかと言う事だ」
「うん。嫌いじゃないから、好きだよ。それがどうしたの?」
照れもなく恒河沙は言い切る。
はっきりとした基準での判断、好きか嫌いか。嫌いでなければ好きだと信じてる恒河沙は、そんな単純な答えを出した。
「では頼みが有る。主を護って貰いたい」
「……俺が、ソルティーを?」
依頼者としての頼みではない言葉に困惑する。
自分の雇い主を護るのは傭兵の役目だ。わざわざ言われなくとも、それをするのが自分の仕事だ。
しかし、そういう事ではないとハーパーが言っている様な気もするし、実際にそうだった。
「主は心に病を抱えている。我にはどうする事も出来ぬ、己を責め続ける病だ」
「心の病気?」
「そうだ。主は何時でも孤独と言う病に蝕まれて居る」
「でも、ハーパーが居るだろ? 俺、なんにも出来ないよ」
今日だって手を握るしかできなかったのだから。
「我は主にとり臣下でしかなく、主の支えになれる者ではない。今の主が必要とするは、主を必要とする者が側に居ると思わせる事だ」
その言葉に恒河沙は頭を捻る。
恒河沙の立場から言えば、必要としているのは自分ではなく、自分達を必要としたからソルティー達は自分達を雇ったのに、どうして自分がソルティーを必要としたら彼の病気が治るのかが判らない。
これを須臾が頼まれていたら、また金銭勘定の話となるのだろうし、何よりハーパーの真剣さから、簡単に答を出すのは恒河沙には無理だった。
「……簡単に説明して、俺にどうして欲しいわけ?」
この返答如何で自分の答えを捜そうとしたが、ハーパーの言葉は意外と簡単だった。
「主の側に居てくれれば良い。成る可く主を一人にしないでくれまいか」
「う〜〜ん、それくらいなら出来るけど、俺本当に、何も出来ないよ?」
「構わぬ。お主はありのままの姿で主に接して貰いたい。但し、この事は主には無用として貰いたい」
「うん、判った」
心の病気と言う物が、一体どんな事なのかは理解できないが、ハーパーが自分に出来る事だと言うのなら、それをしても構わないと思う。
それと、ソルティーの譫言で聞いた、「一人はもう嫌だ」と言う言葉が彼の本心なんだと思うと、側に居てやりたいとも感じた。
ソルティーが目覚めてから二日程経過した。
動き回る事はまだ出来ないが、ベッドから起きあがる事は可能となった。
昨日から須臾がハーパーと交代し、ソルティーの身の回りを世話を始めた。ハーパーはこの数日間で消費した体力を取り戻すために、付近の山岳地帯まで飛び立ったのが理由だ。くれぐれも主を頼むと二人に念を押して。
とは言え、着がえなどは自力で出来るようになった状態では、須臾がすることは食事を部屋まで運ぶ位である。
「ええっと……朝食、食べますか?」
宿で用意しして貰った朝食片手に、須臾が覚えたての言葉を使う。
『早いものだな。発音も正確だ』
『そりゃ、誰かさんとは違いますからね。それにね、実は此処のお姉さんがまた床上手な上に教え上手な訳。ソルティーには悪いけど、此処に長居が出来て僕は嬉しい』
テーブルに食事を置き、正直な笑みを見せる。
他の二人がソルティーにつきっきりになっている事を良い事に、須臾は大半を女性の部屋を渡り歩いて過ごしていたと言うことだ。自分の部屋に帰るのは恒河沙が眠る時位だったが、それも二日おきだった。
ソルティーの看病に真剣になっている二人を良いことに、誰にも咎められずに好き放題。とても雇われの身とは思えない行動であっても、悪びれる様子もない彼を前にしては、忠告する気分にもなれない。
『女性の口説き文句ばかりを覚えないでくれよ』
『そりゃあ勿論。日常会話が出来ないと、女性は振り向かせられませんからね。それに恒河沙が話せるのに、僕が話せないのって結構しゃくに障る事に気が付いた』
『……確かに』
須臾は窓を開け、そこに腰掛け外から見える景色を眺める。
紫翠大陸とは違う町並み。統一性のない混じり合える混じり合った、色が有るようで色のない世界。
『一つ、聞いて良いかな?』
窓の前を行き交う人々を眺めながら、声音を落とした声が須臾の口から漏れた。
『答えられる範囲なら』
ベッドに腰掛け食事を口に運びながら、ソルティーも彼を見ずに言う。
『倒れた理由が知りたいね。持病だと聞かされたけど、それにしても納得できない事が多すぎる』
『なるほど、回復が早過ぎたか?』
『……引っかかる言い方だね。それって自分で調節出来るって事?』
『有る程度ならな』
肯定する言葉に驚き須臾はソルティーへ顔を向けるが、当の本人は大した事ではないと思っているのか、食事を続けたままこちらを見る事はない。
『どういう事か説明して貰える?』
『倒れた事は不可抗力だ、そう言う体質だからな。自分で治せるのも事実だが、それは説明出来ない』
本当なら今日にも体の調子を完全に元に戻せたが、変に思われるのを避け、あえてもう二三日掛けての回復だった。
『説明出来ない、ね。……まあそれは良いけど、でもさあ、これからも度々倒れられたら困るんだけど』
『倒れる事は無い筈だ。しかし、何も話さない訳にはいかないか……。俺は魔法や呪法、呪術の類を一切受け付けられない体質だ。だから医術師に掛かれば、余計に体調が悪くなる。俺に言えるのはこれだけだ』
これ以上詳しく語る気もなければ、これ以外の疑問にも答えはしない。最後に付け加えた台詞の意味は深入りを拒絶する命令として、須臾に伝えられた。
作品名:刻の流狼第二部 覇睦大陸編 作家名:へぐい