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刻の流狼第二部 覇睦大陸編

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「ああ〜〜ん、グルーナ様ったら乱暴なんだから。一言名前を呼んで貰えれば、あたし直ぐにでも部屋に入って来たのに」
 赤くなった鼻を一応片手で隠し、片方の手でソルティーに抱き付こうとしたが、それは見事に避けられた。
「グルーナ様酷すぎ」
「盗み聞きは酷い事では無いのか?」
 多分それ程多くは聞かれていない筈だが、言葉をシスルの物に変えなかったのが悔やまれる。
「盗み聞きなんて酷い。あたしはただお話を邪魔しちゃいけないと思って、それが終わるのを待っていただけなのに」
「何処まで聞いていた」
「全部……って言いたいけど、ほんとは聞こうと耳を近づけた瞬間扉と激突。なぁんにも聞いていません。ああーー、もしかして聞かれたらまずい話でもしていたの? ねっ、ねぇ〜ん。だったら何がなんでも聞いておけば良かったわ! グルーナ様の弱みを握れる数少ない機会だったのに、バカバカ、ミルナリスの大バカ!」
 聞けなかった事を悔しがるミルナリスの表情は、嘘を言っている感じはなく、全員がほっと息を飲む。
 それが目に付いたのか、ミルナリスは思いっきり頬を膨らませると、
「何よ何よ! あたしが折角今度の新しい衣装が出来上がったから、親切に見せて上げようと持ってきたのに、どうしてみんなしてそんな顔するかな? そうだっ、グルーナ様には特別にあたしの着替えも見せて上げる」
 廊下に置きっぱなしだった真新しい箱を持ち込み、ミルナリスはソルティーにだけとっておきの笑顔を見せる。
 どうやらその中に衣装が入っているようで、見せに来たのは本当らしい。
「遠慮する。そんな事はどうでも良いから、早く店に行ったらどうだ」
「やだ、グルーナ様があたしの心配をしてくれた! 聞いた? 聞いた? ああん、あたし嬉しいぃ〜〜」
 追い出そうとする言葉を逆手に取り、両手を頬に当て一人身悶える。
 どうしても慣れる事の出来ない彼女の行動に目眩を覚え、ソルティーは須臾に後を任せる事にした。
「須臾、彼女を店まで送り届けてくれ」
 矢張りそう言うかと、須臾は溜息を吐きだし、ミルナリスは勝ち誇った顔をする。
「残念でした。今日は明日の準備の為に、お店の殆どは夕刻でお終い」
「ええええっ! 嘘っ! んじゃあ、俺は何処で晩飯食えば良いんだよ?!」
「宿のご飯で我慢したら?」
「まずいからやだ」
「っと言う訳で、今日はあたし暇なんだ。だからグルーナ様ぁ、あたしも此処に居させて? あたしの家にグルーナ様が来ても良・い・け・ど」
「須臾、彼女を家まで送り届けてくれ」
「宿の食事だって腹に入ったら同じだよ」
「酷い〜〜〜」
「でもまずいのはやだぁ〜〜」
「須臾、人の話を聞いているのか」
「そっちこそこの大食い我が儘大王をどうにかしてよ」
「グルーナ様はあたしと一緒にお食事しましょ〜。あたしこう見えても、お料理は得意なんだからん」
「誰が大食い我が儘大王なんだよ!」
「ええーーいっ、お主等、黙らぬかっ!!」
 狭い額に太い血管を浮き上がらせ、仁王立ちになったハーパーの怒声は、壁を震わせながら宿中に響きわたった。
「誰も彼も子供では無かろう! もう少し余裕を持って会話をせぬかっ! 特に主!」
「わ、私か?!」
 真っ直ぐに自分を指さしたハーパーの目つきが、滅多に見られない程据わっている事にソルティーは気付き背筋を正す。
「婦女子の送迎は、男子たる者の役目である。それを無様にも他者に押し付けるなど、以ての外であると思わぬのかっ! 我は此程までに情けない思いをしたは、初めてぞっ!!」
 有無を言わせぬハーパーの迫力に押され、ソルティーは体が勝手に頷いていた。
「やったぁ、竜の小父様話が判る!」
「其処の女子もである!」
「えっ、何で??」
「この様に陽も暮れてから男子の部屋へまかり越す等、羞恥無きにも程がある! 我が居る限り不行状は許さぬが、此処に至までに何ぞ遭うたら如何にするつもりぞっ!!」
「は、はい! ごめんなさい!」
 ミルナリスもソルティー同様に背筋を伸ばし、深々とハーパーに向かって頭を下げる。
 それを見ていた須臾と恒河沙と言えば、ハーパーのあまりの真面目さと、ソルティーの情けない姿に笑いがこみ上げて、それを堪えるのに苦労していた。しかし、ハーパーの矛先はその二人にも向けられた。
「恒河沙!」
「俺も?!」
「お主は我慢と言う言葉の不足を知れ! 食事とは抑も、身体運動を滞り無く成す為に必要な栄養を、最低限摂取すれば良き物。それを己の趣向にのみ伴わせ選別し、尚且つ、現在置かれている状況を思考せず、作り手を侮辱し、不平不満を口にする等、若輩と言えど許容される事ではない!」
「せしゅ……? しゅ……、せんべ…?」
 急に自分の時だけ難しくなった感のするハーパーの言葉に、恒河沙は目の前がくらくらする。
「最後に須臾! お主は何故主の言葉に直ぐに返答せぬ!」
「そんな事言ったって……」
 そんな暇は無かったと須臾は訴えたかったのだが、彼の言葉は今のハーパーには届かない。
「抑もお主は、他者の物事に対する態度が成って居らぬ。先程に置いても、他者の姿を嘲笑する等、真摯さ及び寛容さを不足している証拠である!」
「不足って…」
「返事は!」
「はい!」
「宜しい! では、主は其処な婦女子を送り届け、須臾及び恒河沙は宿での食事を摂取すべし! 掛かれ!」
 ハーパーの号令と共に、ソルティーはミルナリスの荷物を持ち、彼女を連れて部屋から飛び出し、須臾はまだ頭をぐらぐらさせている恒河沙の腕を引いて部屋から出た。
 全員が部屋から出ていったのを見届け、ハーパーは一人納得して大量の息を口から吐き出すと、またいつもの様に床に腰を下ろした。
「全く仕様の無い者達だ」
 そう言いつつもハーパーの顔は楽しげに微笑んでいた。



「はぁ、怖かった」
 宿から出てやっと、ミルナリスは肩の力を抜いた。
「済まない。普段はもっと穏やかなのだが……」
「ううん、ちょっと驚いただけ。元はと言えばあたしが悪いんだし、怒られても当然」
 見上げてくる顔には、悪戯っぽい笑みさえ浮かんでいる。
「でも、グルーナ様に送って貰えるなんて、怒られて良かった。なーんて言ったらそれこそ怒られちゃうね」
「……いや」
「嬉しいな。このまま世界中が止まってしまえばいいのに」
 幸せだと感じる時が短いと知る言葉が、彼女のこれまでを伝えてくる。
 どんなに明るく振る舞っていても、母を奪われ、踊る場所を奪われ、決してそれだけではないだろう苦しみが、この街に数え切れない程ある。自分がそれを忘れさせるだけの存在になる資格が無い事は知りつつも、彼女にとっては束の間の幸福まで奪い切れはしない。
 そんな同情心を感じていると、ミルナリスの腕がぎこちなく腕に絡まり、今を逃さぬ様に頬を寄せてくる。それを振り解こうとする気持ちと、今だけでもとする気持ちが同時に沸き上がり、ソルティーは自分自身を嫌悪した。
――人と人との繋がりか……。
 決して適当に済ませようとしている訳ではない。ただ是か否のどちらかだけの決断が出来ない時も在るのが、人と人の繋がりだろう。
「グルーナ様は優しいな」
「優しい? 私が?」