刻の流狼第二部 覇睦大陸編
本当は知りたかった。隠された右目も、彼の昔も。無理に聞き出すのではなく、普通の会話の中で聞かせて欲しかった。
しかしその機会を自ら不意にして、怒らせてしまった事さえある。今となって後悔として存在するなら、無理にでも聞けば良かったのかも知れない。
「恒河沙……」
――ごめん。
知ればもっと欲が出てくる。だから、心の中で謝るしかない。
「もう、いい加減頭を上げてくれないか?」
「………」
「恒河沙」
頭を上げない強情さに諦めて、その顔を両手で自分の方に向かせた。
本気で落ち込んでいると思っていた顔は、全くの逆。それどころか気持ちよさそうに笑んでいたのだから、ソルティーは力が抜けてしまった。
「お前は……」
「へへ」
恒河沙は途中から完全に、頭の手だけに気持ちが飛んでしまったのだった。
――やっぱりソルティーの手が一番良い。
「ごめんな」
先刻とは違う悪気のない言葉に呆れ、乗せていた手を引こうとしたが、その手の下で起こった出来事に動きが止まった。
「恒河沙?」
ソルティーから見れば黒いその髪の毛が、徐々に色が抜け落ち、毛先の方から白く変わっていく。
「……あっ」
蒼かった髪の毛と眉が完全に白くなるには、それ程時間は掛からなかった。
その光景はまるで、空の色が移り変わっていくようであり、色が弾けるようでもあった。
「…………」
ソルティーは目の前で起こった出来事が信じられず、呆然とそれを見ていた。
「忘れていた……」
“効果が切れるから、染め直すよ”
浴室で須臾と交代する時に言われた言葉を思い出す。
「これは白なのか?」
確かめるように触れた髪の感触に変わりはない。それでも肌よりも尚白く、何にも染まっていない事が、不思議な気持ちになる。
「……うん。生まれた時から色が無いんだって。目だけ色つき。須臾に染めて貰ってるんだけど、長持ちしないから。……気持ち悪いだろ?」
恒河沙は前髪を弄りながら、上目遣いにソルティーの顔色を伺った。
色彩豊かな人々の中でも、生まれながらの白髪は珍しいと言える。特に人間の中では、老いの象徴としか思われていないだろう。
生まれ育った村から出るまでは差し障りはなかったが、他の場所では気味悪がられる事が多かった。
まだ髪だけなら気にせずにいられた。だが生まれつきの特異さは、隠せない目の色にまで及んでいた。周囲から奇異な目を向けられて黙っていられる性格ではなく、たとえ喧嘩に勝って相手を黙らせても、心にはどうしようもない事への苛立ちは募る。せめてとばかりに須臾が用意したのが、染め物用の封呪石だった。
ただし術の効果には期限があり、過ぎると元に戻ってしまう。そんな説明を忌々しそうに語る恒河沙を、ソルティーは黙って見つめていた。
「須臾みたいに綺麗な顔で、これも似合えば良いんだけど、俺じゃぁ気持ち悪いだけだから。須臾は色試しが出来て面白いって言うけど、俺、やっぱり普通じゃない」
「どうして? 普通だよ」
「こんな目で、こんな頭で、おまけに昔が無くて、あんな剣持ってるのに? どこ探しても俺みたいな奴は居ないに決まってる!」
弄っていた髪を鷲掴みにし、唇を噛み締めて悔しさを押さえ込む。
誰に何を言われてもそれを力で黙らせてきたけど、相手がソルティーでは訳が違う。これだけは知られたくなった。彼に奇異な目で見られるなら死んだ方がマシだとさえ思う。
心の底から自分の全てを拒絶する姿を見つめ、ソルティーは優しく彼の髪を撫でた。
「恒河沙が普通じゃないなら、私も普通じゃないな。色が見えないし、治せない病を持って、他にも色々あるけど、お前に気味悪がられるのが怖いから言えない」
「ソルティー……」
「外見が違っても中身が綺麗なら、それで構わないのじゃないか? それが一番大事な事だと思う。だから、私はお前に隠し通すよ、嫌われたくないから」
器用に言葉を繋ぎ合わせる事が出来たら、感じた事をそのまま言葉に出来たら、自分にしか判らない気持ちを相手と共有出来たなら、こんなにも苦しむ事は無いのに。
「私の目ではこの髪の本当の色も判らないし、お前を見る他人の気持ちも判らない。けど、私はお前がどれだけ正直か知ってるつもりだよ。確かにお前の様な人間はどこを探しても居ない。間違いなくね。しかしそれは、外見だけではなくて、お前の中身も含めて、お前自身が居ない事だよ」
傷の舐め合いをしている様だと、言葉にしながら思う。思いながらも言葉を止められないのは、彼に自分自身を嫌って欲しくないからだ。
「もし、恒河沙がありきたりの外見と、記憶と、生活があれば、多分私はお前と出会えなかった。――お前の辛さの何分の一も知らないで言える台詞ではないけれど、今のお前に感謝している。恒河沙が今の恒河沙だから出会える事が出来たから、此処まで旅が出来たから、私は良かったと思っている。それだけでは駄目かな? 私の言葉には意味がないだろうか?」
「……いい……ソルティー…だけで、いい」
何度も首を振り、泣きそうになるのを堪えて目を閉じる。
嬉しくても涙が出ることを、恒河沙は初めて知った。でも、泣くなと言われたから、彼にだけは涙を見せたくなかった。
けれど、閉じた瞼から堪えきれなかった涙がこぼれた。
「恒河沙?」
「ソルティーだけでいい。他の人の言葉なんか要らない、だから、嫌いにならないで」
「どうして? どうして嫌いになるんだ。嫌いな所なんか何処にもない」
慰められた経験が少なくて、どうして良いのか判らない。だから指で恒河沙の頬を拭い、涙が止まるようにと祈る。
「恒河沙……」
拭っても拭っても尽きない所か、嗚咽まで漏らし始めた恒河沙にソルティーは本気で困り果てた。
子供の頃からハーパーは彼が泣くと、その大きな声で怒鳴りつけて無理矢理涙を止めていたし、普通なら居る筈の母親も泣きつく存在ではなかった。
――どうすれば良いんだ……。
記憶を幾ら辿っても、それらしい記憶には辿り着けない。
「ああ、もう良い!」
そう言葉を漏らし、ソルティーは恒河沙の頭を腕の中に納める。せめて泣き顔だけは世界中から隠してやるように。
「幾らでも泣いていろ。でも、これが最後だから、最後の一滴まで絞り出せ」
我ながら情けない慰め方だと思う。同時にこうまで必死になっている自身が、恥ずかしくもある。
それでも放り出せないのは、この温もりの所為だろうか。
「……ル…ティ…」
結果的にソルティーの胸に抱き寄せられる格好となった恒河沙の涙は、額が彼の胸に着いた途端引っ込んでいた。代わりに真っ赤になった顔と、全力疾走後の様なドキドキに見舞われた。
須臾にも今まで何度もこんな風にされた。冗談半分で奔霞の傭兵仲間に抱き付かれた時は、気持ち悪いだけだった。それなのに今は目眩を感じる程慌ててしまうような、嬉しいような、楽しいような……。
兎に角今までに感じたことなんか一度もない、しかしずっと感じていたいような、とても不思議な感覚なのだ。
更に鼓動の速度は速まり、顔はこれ以上無い程の赤を通り過ぎようとして、暫く恒河沙は顔を上げたくても上げられない状態になってしまった。
人を本気で好きになれば、自然と体が反応するようになる。
作品名:刻の流狼第二部 覇睦大陸編 作家名:へぐい