刻の流狼第二部 覇睦大陸編
自分の肩に頭を寄せ、直ぐに寝息となった恒河沙を確認して、漸くソルティーは目を閉じた。
ずっと眠れなかった。
目を閉じると、いつ仕事の終わりを告げるのか、それだけが頭に浮かんで寝付く事など出来なかった。
今直ぐにでもそれを言う事は可能だが、言い出せない、言いたくないと思う自分が居て、言葉を上手く繋ぎ合わせる事が出来ない。
――このまま何も無ければ……。
日に日に大きくなる取り留めのない気持ちが頭を擡げる。
このままずっと何も考えずに旅を続ける事を望んでしまう。自分が自分でなければと、そんな夢を思い描いてしまう。
――時間さえせめて同じなら、悩む事も無かったのか?
他人を必要だと言う自分に気付きたく無かったのに、いつの間にか必要な人を見つけてしまった。
手放せば心は安まるかも知れないが、手放せば支えを失ってしまう。
――アルスティーナの様な目には遭わせられない。
それだけは避けなければならない事だった。
自分をなんの疑いもなく許してくれた人を、二度と失う訳にはいかない。
『生きようとしている人を護って』
アルスティーナの言った言葉はそのまま、生に満ち溢れている恒河沙の姿に変わる。
何を賭してもこれだけは護らなければならないと思う程の、眩いばかりの輝きを放ちながら。
「う〜ん……これは、どう見ても……」
明け方になってからほろ酔い気分で部屋に戻った須臾は、そこで言葉を失った。
ソルティーのベッドで眠る恒河沙を見つめ、その彼が安心しきった表情でソルティーの腕にまとわりついている姿に頭を抱えてしまう。
――恒河沙……それは危ないよぉ〜〜。
須臾と眠るときは、本当にただ横で寝るだけなのだ。
腕を掴むとか、寄り添ってくる等は一切無かった。あるのは自分が寝ぼけ半分に女と間違えて抱き寄せる位だろう。
それが今はどうだ。全身で放さないぞと言わんばかりで腕に抱き付いて、肩に擦り寄せた顔の幸せそうなこと。胸を撫で下ろせたのは、まだソルティーが若干逃げ気味になっている事くらいだろう。
――擣巓の時もこうだったとしたら、そりゃソルティーも怒るわ。でも、っと、言う事は、あれか……。重傷かも……。
恒河沙の感情面は、単純であるが故に一つ一つが深く強固だ。しかも最初に振り分けられるのは、“どうでもいい奴”と“そうでない奴”。
初めて彼が他人に興味を抱いた時に、その意味を考えなければならなかった。
だがもう手遅れだ。――いや、奔霞で出逢った事が、そもそもの……。
考えれば考えるだけ心地良かった酔いも覚め、須臾はひたすら陰鬱になっていく気分を感じた。
ソルティー達が起きてから、暫くすると何時も通りミルナリスが扉の前にやって来たが、それよりもソルティーは須臾の視線の方が気になって仕方がない。
「どうしたんだ?」
と一応聞いてみたのだが、
「いや〜別にぃ〜。悪い事したなぁって思ってるだけぇ〜」
とだけ言い、何が悪いのかの説明は一切無かった。
「ソルティー、昨日の話だけど……良い?」
須臾と交代に浴室から出てきた恒河沙が、髪を拭きながらベッドのソルティーの横に腰掛ける。
「ん? ああ、祭りの事か……」
今まで手に入れた情報を、役立つ分だけ紙に書き並べている途中だったが、恒河沙の為に一端手を休める。
「駄目? 暇無い?」
「まだ少し判らないな。しかし、多分大丈夫だよ」
「やったぁ」
ソルティーはその場で飛び跳ねる恒河沙の肩を軽く押さえ込み、自分に伝わる派手な振動を止める。
「多分だぞ、多分。まだ色々と調べる事が有るから、それが決まればちゃんと返事をするから」
これが最後になるかも知れない。
そう思うと「煩わしい」と心の何処かに思っても、恒河沙に気付かせるまでにはならない。
「調べるって何を? 剣の事?」
「ああ。……ったく、これでは意味が無いだろう」
恒河沙の髪から滴が何滴も落ちだし、新しく交換したばかりのシーツを濡らしていく。
それは別に構わないが、彼が動く度にソルティーにまで滴が飛び散り、せっかく書いた文字を滲ませもする。仕方なく強引に背中を向かせて、乗せられたタオルで水気を拭ってやった。
「どうして俺達使わないの? 俺は使えないけど、須臾はどうして?」
「……色々有るんだ。まだ決まっていない事の方が多くて、二人に話を出来る程、纏める事が出来ない」
「でも」
振り返ろうとした頭を両手で挟まれ、どうしても後ろが見えない。
「恒河沙、お願いだから困らせないでくれ」
「………ごめんなさい」
微かに恒河沙の肩が落ちたのが伝わり、その動作と言葉の微妙さで彼の表情までが見えてくるようだ。
「ああ、悪かった、謝るのは私だ。済まないな使えない雇い主で」
「そんな事ない。使えないのは俺だけだ」
「恒河沙……」
何かが変わったのだと感じる。
出会ったばかりの頃の恒河沙なら、こんな事は言わなかった筈だし、ソルティーのしている事に対しては無関心の様に見えていた。
仕事の役割として当然の事であり、関心を示されても困るのも事実だ。
しかし少なくともこれまでの彼は、決して須臾抜きで仕事の話はしなかったし、出来もしなかっただろう。ヤスンでの一件が大きく関係しているようにも感じるが、果たしてそれだけだろうか。
――多少の成長は有ると言う事か?
馬鹿にするつもりではないが、我が子の掴まり立ちを喜ぶ親の心境だ。しかし、
――厄介だな。
とも感じてしまう。
「これで良い」
充分水分を吸収したタオルを畳み恒河沙に手渡し、ついでに彼の濡れた眼帯を指先でつついた。
「これ変えておいで。今度からちゃんと髪を乾かしてからつけた方が良い」
「あ、うん」
言われた通りに自分の荷物から替えの布を取りに行った恒河沙の姿から視線をハーパーに移し、彼の目が嬉しそうに細められているのに肩を竦める。
《何か言いたそうだな?》
《否。主も変わられたと思ったまで》
ソルティーの事を恒河沙に頼んだ事は間違いではなかったと、ハーパーは何度も頷いた。
《そんなに変わったか?》
ハーパーの横まで近付き、壁に凭れて窓からの景色を眺める。
《少なからず。昔の主は人を横に座らせもせぬし、他者の髪を気にする事も無かった》
《……確かに》
指摘されて初めて気付く事の多さに口元が歪む。
強引に横に座ってくる恒河沙に、最初は微かな不快感もあった。それがいつの間にか普通になっていて、何かをしてやる事さえも楽しく感じる。
環境が変われば、心境も変わる。子供の時には当然だった事が、今では不自然に思え、その変化を楽しめるようにまでなったのだと思う。確実には原因は恒河沙と須臾の存在だろう。
《あの時の私にはアルスティーナとお前しか居なかった。他には必要ないと思っていた》
《それが現在では違うと?》
《ああ。あの子には助けられたよ。たとえお前の言葉に従っての事だとしても、傍に居てくれるだけで、これだけ安心出来るのは嬉しいと思っている》
穏やかなソルティーの表情にハーパーは喜びを感じた。
しかしそれは長くは続かなかった。
作品名:刻の流狼第二部 覇睦大陸編 作家名:へぐい