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刻の流狼第二部 覇睦大陸編

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「恒河沙」
「捕まえれば良い?」
「ああ、頼む」
 それが当たり前の様に確認すると、恒河沙は消されたニューグラルの気配を追って外に飛び出した。
「良いのかい、ちっちゃいの一人で?」
「ああ、大丈夫だ。ちっちゃいけど腕は良い」
 油断していたとは言え、先程の恒河沙は完全にニューグラルを上回る動きを見せていた。あれならば本気を出したニューグラルと互角に戦えるだろう。
 均衡した力を恒河沙がねじ伏せられなければ、傭兵として話にならないのも事実だ。
 信用しているが、信頼できるかはこれで決まる。
 どちらにせよ自分が出ていっても、恒河沙に止められるのは目に見えていた。それなら信用して待っていた方が、彼も気兼ねなく戦えるだろう。
「難儀な商売さね、暗殺者なんぞは。自分で考えて、動く事も出来ない仕事の何が良いのか、あたしにはさっぱり理解出来ないね」
「どの役割でも総てを一人では出来ない筈だろう。他人の意思が介入しないのは、この世に存在しないと思う。そう言った人と人の繋がりを広げ、堅くする事が貴女には出来るのだと私は信じている。今は断ち切られている繋がりも、何時かは繋ぎ直す事は可能だと思うよ」
 せめて北と南に分かれ監視しあう事などない様に、人目を気にする事なく語り合える様にと願う。
「出来るかねぇ、あたしなんかに」
「出来ると信じる事が始まりだと思う」
 答えの出せない事など、産まれてから死ぬまでの間には、数え切れない程あるだろう。
 それが長い年月を要しなければならないなら、尚更の如くに。
 ならば考える時間があれば、まずは動き出さなければならない。善悪ではない結果を信じて。


 互いに考える事があるのか、暫くなんの言葉を交わすこともなく時間は流れ、沈黙だけが二人の間を行き来していた。
 恒河沙が小屋を出てから、外で剣を交える音も聞こえず、ニューグラルが現れる事もなかった。
――これで本当に良かったのか?
 満足したのは自分だけではないのか。
 ディゾウヌへ言った言葉は総て本心からだったが、時間を経るとどうしてもそれが自分の欺瞞にも思えた。自分の中に在る二つの思いに、大きな隔たりを感じずには居られなかった。
「私は卑怯者だな」
「何を藪から棒に言うのさね」
「貴女に生きろと言っておきながら、リーヴァルには死を与えた。都合良くその場その場で考えを改めるなど、許される事ではない筈なのに……」
 ディゾウヌを見もせず、心の痛みを吐き出そうとする。
 人に判断して欲しかった。自分のしたことは間違いだったのか、それとも正しい事だったのかを。
 そして、その迷いに、彼女は一つの答えをもたらしてくれた。
「あたしがあんたを通して見たリーヴァルは、昔、互いの街を元通りにしようと言っていた頃の顔だったよ。若い頃は冗談と悪戯と嘘が好きで、人の狼狽える様を見るのが好きな嫌なやつだったさね。でも、みんなその生き生きとした顔が好きだった。――それがいつの間にか、人の苦痛と憎しみまで背負って、疲れ切った心を隠すような、そんな辛い顔しか見せて貰えなくなった。死ぬ前のあいつの顔は、本当に若い頃に戻ったみたいに、憎たらしい顔さね。……何もかも、辛い事も楽しい事も、全部終わらせてしまったのだろうね。あたしも、あんな顔で死ねたら嬉しいねぇ」
 総ての物事に善悪を当てはめる事など、出来はしない。
 大きな歴史の上で、聖聚理教の事はある程度の位置づけはされるかも知れないが、その中にいた多くの者達の生涯は誰にも測る事など出来はしない。
 それでも言える事があるとするなら、ディゾウヌのから見てリーヴァルの幕引きは素晴らしい物だと言う賛辞だけだった。
「……ありがとう」
 決して消えない悔恨かも知れないけれど、ディゾウヌの言葉でソルティーは初めてリーヴァル達の事を心に納める事が出来た。
「礼を言うのはあたしだと言っただろう? ありがとう、あたしを生かしてくれて、ありがとう、リーヴァルを穏やかに眠らせてくれて。本当にありがとう、感謝するよ」
 優しさと、穏やかさの込められた言葉だった。
 これから先、ディゾウヌが紡いでいくだろう人と人との繋がりを信じられる言葉だとソルティーにも伝わる。
――何時か許される日が私にも来るのだろうか? 逃げだし、逃げ切れずに戻ってきた私が、許される日が本当に……。
 今はまだ無理だとしても、その日が来るまでに、ディゾウヌの様に思える自分になりたいと、心の底からそう願った。


 ズシンとした、音とも振動とも言えない響きが小屋に伝わり、驚いたディゾウヌが目を見開いたまま椅子から立ち上がった。
「気にする事はない。多分恒河沙が帰ってきただけだ」
 ソルティーは特に取り乱した様子もなくそう言い、その言葉通りに恒河沙の声が外から聞こえる。
「当たり、でも、一寸手が放せないから、こっちに来てくれない」
 少しだけ息を切らした様な言葉遣いに従い、二人は小屋の外に出た。
 其処にはニューグラルが地面に俯せに這わされ、上から恒河沙が馬乗りになって彼の両腕を締め付ける光景があった。
 二人とも顔や手に裂傷があり、服の所々が破けている。
「猫ちゃんどうするの?」
「だ〜か〜ら〜〜猫ちゃんって呼ばないで頂けます? まったく小母さん、こういうのって一寸酷いと思いま……」
 相変わらずこの状況下に置いても、余裕を見せようとするニューグラルの腕を、恒河沙は容赦なく締め上げるが、痛みに耐性が出来ているのか、彼の顔には苦痛の色は浮かんでいない。
 しかし腕を拘束されているだけにも関わらず、恒河沙を退けられないのは、余程体を痛めつけられたと言う事だろう。
「ニューグラル、本当にあたしを殺したいのかい?」
「……仕事ですから。ハハハ…僕に向いた仕事が、他に有れば良かったんですけどね」
 本心は別にあると言いたげな言葉に、ディゾウヌは哀れみを隠せなかった。
「僕の負けです。僕は仕事を降りられない身ですから、一思いに殺して下さいよ。ああ、死んだふりして生きろ、なーんて調子の良い話は駄目ですよ。僕には絶対無理な事ですから」
「………」
「早くして下さい。そうしてくれないと、無様にも僕は、舌を噛み切って死ななければならない。そんな醜態は見せたくないんです」
 彼なりの最後のあり方に周りは呆れた。
 しかしこのまま無駄に時間が経てば、彼は本当にそうするだろう。
「どうしたんですか? 早く決めて下さい」
「恒河沙、手を放してやれ」
 ソルティーの言葉に全員の表情が驚きのままに彼に向けられるが、取り立てて他の言葉を付け足す事もせず、恒河沙は渋々その言葉通りニューグラルを解放するが、一応彼に直ぐ飛び掛かれる場所に立つ。
「良いんですか、僕は仕事をしますよ?」
 軋む体を立ち上がらせ、奇妙な事をするとソルティーを眺める。
 単にディゾウヌを殺す事を認めた筈でもない彼を前に、直ぐに仕事に移れないのは、自分が軽率な行動をとればどうなるのかを体が判っていたからにすぎない。
 そんなニューグラルからディゾウヌへと、ソルティーは顔を向け、
「一つ提案がある。今から彼女が仕事を依頼するから、お前は先にそれをしろ」
 微かに笑みの混じった言葉を繰り出す。
「あんた一体何を……」