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刻の流狼第二部 覇睦大陸編

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「俺がハーパーに頼まれたんだ。だから須臾は関係ない」
 自然と出てきた言葉に驚いたのは、恒河沙自身かも知れない。
 今まで依頼を受けるのも交渉するのも、総て須臾一人が行ってきた。傭兵になると決めたのも彼で、それに何も考えずに従ってきただけだ。
 そんな恒河沙が、初めて須臾を抜きで考え、行動していた。
「俺、ちょっと考えたんだ。ソルティーは俺より強いし、俺が護る必要なんかぜんぜんないかも知れないけど、ソルティーが相手にする奴より俺が強かったらあんたを護れるんだよな。あんたが何をしたいのか、どこに行くのかなんて俺にはさっぱりわかんねぇけど、俺の仕事は傭兵としてあんたを護る事。だから、あんたの行くとこにずっとついていく」
 恒河沙は一晩かけて出した結論を、自信満々にはっきりと言った。
 無視をされるのも、冷たくされるのも覚悟は出来た。問題なのは自分がどうしたいかだけで、他は一切関係ない。
――いつも一緒にいれば、どうにかなるかもしんないし。
 相変わらず相手の意見には、まったくと言っていい程考えが及んでいないが。
「恒河沙」
 ソルティーは恒河沙の説明が終わってから足を止め、後ろを振り向いて努めて冷静な声を出す。
「最初にお前と契約したのが、私だった事は覚えているか?」
「うん」
「覚えていてくれて良かったよ。そうだ、私個人が二人を雇った。ハーパーは私の同行者ではあるが、契約には関係がない。――と、言う事は、お前がハーパーと契約をした事は、二重契約と言う契約違反だ。知ってたか?」
「え? えっと……ええーーーーーーーーっっ?!」
 恒河沙は周りの人々の視線を一斉に浴びる程の大声を張り上げ驚き、一瞬で顔色を変えた。
 契約の交渉は総て須臾がする。そうなれば当然、恒河沙がそう言った面倒な事を考え、覚える筈もない。
「嘘っ!?」
「本当だ。これは違約問題だな。此方からの契約の破棄は当然で、そちらから賠償金も支払って貰う事になりそうだ」
 ソルティーの態とらしいまでの溜息と、芝居がかった肩を落とす仕種に動転して、恒河沙は彼の側まで駆け寄ってきた。
「ああ〜っ、待って、ハーパーと約束したけど、それは口約束で、契約とかしてない! お金とかも貰ってないし、ほら、あの紙にも書いてないし……だから、先刻の無し! ……ああ、それじゃあ、ハーパーが……あああああ〜〜どうしよう〜〜〜」
 大きく身振り手振りをし、しどろもどろに言い訳を並べて、自分で墓穴を掘り進める姿に周囲の者は訳も分からず笑い、それを間近で眺めていたソルティーも耐えきれずに口元を手で隠した。
「……クッ…」
「ソルティ〜〜〜〜、どうしたらいいんだよぉぉ〜〜〜〜〜〜」
 最後には言い訳をしなくてはならない本人に縋り付き、上目遣いに懇願する。
「クク…冗談、冗談だよ」
 笑いを堪え、涙目で自分を見上げる恒河沙の頭に手を置き、腰を屈めて彼の視線の高さに自分を併せる。
「二重契約は本当だが、言ったのは冗談だ。判るか?」
「あ…う……うん」
 本当は良く理解は出来ていないのは、動揺した瞳の動きで判る。それでも恒河沙が笑顔に戻れたのは、冗談だと安心させられる言葉と、頭に乗せられた手の方が安心させてくれたからだ。
 それに、澄んだ空色の瞳が、真っ直ぐに見つめてくれていた。
 冷たさの欠片もなく、逆に温もりさえも感じる瞳が、髪と同じ金色の睫毛に縁取られて、綺麗な微笑みを形作る。
――うわぁ、やっぱり須臾よりすっごく良い。
 これ以上のない微妙な均衡の中に存在する整った顔。須臾でさえも嫉妬する彼が、他の誰でもなく自分にだけ微笑んでくれている。それだけで恒河沙の表情が明るくなり、自然と笑顔まで浮かんできた。
――此方の方が良い。
 目の前でくるくると変わっていく、まだあどけなさが残る表情。
 それは本当に恒河沙の素直さの表れで、つい先刻までその“らしさ”が疎ましくさえも感じていた。
 だが本当に彼を傷付け、この明るさを奪ってしまった際の後悔や、今の笑顔を見ていると、自分の嫉妬心が如何にちっぽけだった事か。
――あんな顔は、もうさせたくないな。
 信頼されている中で笑顔を向けられる事が、どれほど荒んだ心を癒してくれるのか。忘れていた漸く思い出し、ここからもう一度と思う。
「一緒に来るか?」
 ソルティーは恒河沙の頭に乗せた手を下ろし、今度はその手を自分の進む方向に指し示した。
「うん!」
 離れる手の感触は寂しいけれど、隣で歩けるなら良いと、力一杯頷いた。


 まだ陽が沈むには時間がある。
 ソルティーの横を歩いている恒河沙は、また一つ気が付いた。
――俺にあわせてるのかな?
 ちらっと横を伺い、自分と同じ速度で歩いているソルティーを知る。
 無意識の気遣いなのか、それとも態とそうしているのか。どちらにしてもその優しさが嬉しくもあり、また気なる事でもあった。
――誰にでもこうするんだろうな。須臾みたいに、お姉ちゃんとばっかり遊んだりしてさ。
 そう思うと何故か腹が立ってくる。
――言葉教えてくれたり、髭剃ってくれるとか、頭撫でてくれるとか、俺じゃなくてもするんだろうな。
 想像すればする程、本当にムカムカしてきた。
「……やだな」
「ん? どうした?」
「な、何でもない」
 首を振ってそう言ったが、胸のもやもやは消えてくれなかった。
――俺、ほんとどうしたんだろ。
 自分に向けられる優しさが、他人に向けられると思うと嫌になる。
 子供じみた独占欲と言う感情を、恒河沙はまだ知らない。
「なあ、これから何処に行くの?」
 これ以上踏み込んで考えてはいけないような気がして、無理矢理他の事を考えようとした。
「人に会いに行く」
「人? 誰? ……もしかして女の人? だったら俺……」
 この街に知り合いが居るとは聞いていない。だったらそれ以外に考えつかないのは須臾の影響だろう。
 彼曰く、どうやら大人の男になったら、時々“お姉ちゃんと一緒に寝たくなる”らしい。そしてそれは二人きりでなくてはならないらしい。自分はまだ子供だからそうならないだけなんだと教えられていた。
 但し“寝る”意味まで教えられていないので、口にしながら疚しい事とは理解してはいないが。
 変な気を回す恒河沙にソルティーは可笑しくなる。
「確かに女性だが、流石に老婦人に対しては、そう言う気にはなれないな。話を聞きに行くだけだ」
「話?」
――って言うか、そう言う気って何?
「ああ、そうだ。だから、お前も一緒に居て良いよ」
「そうなんだ」
 一緒に居ても良いと言う言葉に嬉しい気持ちが溢れ、自然に笑みがこぼれた。
 その笑みは掛け値無しに眩しいもので、やはりそれを見つめると胸に曇りが感じられた。ただし今の胸中は、自分自身に対しての後ろめたさだった。
「恒河沙」
「うん?」
「肩は大丈夫か?」
「肩? ………ああ、うん」
 少しだけ考えてから思い出した恒河沙は、元気良く腕を振り回して見せた。
「ほら、大丈夫。ぜんぜん痛くない。体が固いのは得意」
「……それを言うなら、頑丈だけが取り柄」
「うん、それ。――がんじょー、がんじょーがとりえ」
 どうやら本気で恒河沙は気にしていないらしい。