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刻の流狼第二部 覇睦大陸編

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 ハーパーが周囲の様子に一言告げ、彼が歩き出す後を恒河沙達も黙って従った。

 ハーパーは一端街の大通りまで出るが、直ぐに人目の付かない路地を選び、そこで腰を下ろし胡座をかいた脚上に、ソルティーを慎重に置いた。始終冷静なハーパーとは逆に、ソルティーの額には玉の汗が噴き出し、状態は悪くなっているようにしか見えない。
「ひとまず宿だ。我が泊まる事の出来る宿を、捜して来てはくれまいか」
「医者は?」
「必要ない。主だけの病故に医師は必要ない」
「………判った。そこで待ってて」
 どうしてここまで頑なに意志を拒むのか判らない。しかしとりつく島もないハーパーを説得するよりも、先にソルティーを寝かせられる場所を見つけ、説得はそれからだとも思う。
 そう決めてからの恒河沙の行動早く、鞄一つだけを持って通りへと駆けだした。
 須臾は飛び出した恒河沙に一抹の不安を抱えつつも、もっと心配を感じなければならない雇い主の方に残った。
『ええっと、何だったかな……「初め、有る、病気」?』
 ソルティーを覗き込みながらの言葉に、ハーパーは若干表情を曇らせた。
「持病の事か、そう考えて貰っても構わないであろう。それより、言葉を覚えたか」
「……早い、言葉、無理。……遅い、言葉」
 恒河沙の冊子を勝手に見た成果を披露したものの、ハーパーはそれから恒河沙が戻ってくるまで何も話さなかった。
 無視をしたわけではなく、ソルティーの容態がこんな短期間でありながらも悪化しているのは明らかで、心配で目が離せなかったからだ。
――にしても、これは予想通りって事かな?
 竜族の堅い皮膚に阻まれて、ハーパーの表情からは何も読み取れはしない。それでも彼の落ち着き払った様子と、それとは反するソルティーへの心配する様子を重ね合わせれば、どう考えても彼等はこうなることを予測していたのだろう。
 しかし須臾はあえてその考えを、早々に捨て去った。
 これは自分達の仕事には関わりがない。心配なのは、この雇い主が死んだ時に、竜族の目を盗んでどうやって金目の物を奪うかだった。




「…う゛…あ……」
「ソルティー」
 街の者を捕まえて半分脅しに近い形で聞き出した宿にソルティーを運び入れてから、やっと彼の状態は一端の小康状態となった。けれど時折苦しげに声を上げるが言葉にならない声で、誰が呼びかけても目を開ける事はない。
 手を当てた額はかなりの熱を伝え、日に何度も着がえを必要とした。勿論食事など出来ようはずもなく、衰弱は目に見えていた。
 このままでは埒が明かないとハーパーに医者を呼ぶように説得したが、彼はがんとして首を縦には振らなかった。
「主の病は医師を必要としない。治らぬ病なのだ」
「そんなのわかんないじゃないか!」
 宿の廊下で何度も繰り広げた口論に、ハーパーが最後に切り出した言葉は、恒河沙の予想していたよりも酷い言葉だった。
「それ程主を死に至らしめたいのか!」
 真剣なハーパーの苦悶に満ちた表情は、普段読みとれない分悲壮感が増す。
「死ぬって……医者に見せて死ぬってどういう事だよ!」
「主は……言えぬ。我は主の許し無くては何も語れぬ」
「ハーパー……」
 恒河沙はそれ以上何も聞けなかった。
 ここで雇い主であるソルティー以外の命令は聞かないと言うのは、立場的には簡単だろう。しかしハーパーは、自分よりもソルティーの事を知っている。彼等の関係は未だに判らないが、それだけは確かだ。――いや、それ以上に、誰よりも彼自身がこの状態に苦悩している。
 苛立ちは眦に表れ、歯痒さが握り締められた拳に宿っていた。
 竜族のそんな姿を見せつけられては、無理を言い続けることは恒河沙であっても不可能だった。
 その代わりに恒河沙は、ソルティーの看病の半分を受け持つことだけはねじ込んだ。彼一人に任せれば、おそらく彼は眠ろうともしないだろう。
 ハーパーが眠る間は、代わりに恒河沙がソルティーの側にいる。
 ただ須臾だけは、看病から外れ、リグスの言語習得への時間をあてがわれた。
 病人を抱え込むことにあまり良い顔を見せない宿屋の主人との交渉を含め、どう見ても子供にしか見えない恒河沙に全てを任せるには心許ない。
 まず間違いなく竜族が出れば一瞬で片が付くことでも、ハーパーはソルティーの傍らから一瞬でも離れるつもりが無いのは、自分達が信用されていないからだろうか。
 もっとも男の看病など、それが雇い主だろうがするつもりの無かった須臾は、あっさりと了承したのだが。


『どう? 様子は』
 ハーパーと交代を終わらせた恒河沙は、部屋に戻るとすぐに須臾に問いかけられ首を振って答えた。
『ぜんぜん。うなされたままだし、起きねぇし。このままじゃすいじゃくしてしまうよ』
『無理にでも医術師呼んでこようか?』
『だめだよ。ハーパーがつきっきりだし、それにホントにハーパーが言ったとおりだったら……』
 須臾のベッドに横たわりながら、恒河沙は顔を両手で覆った。
 今まで感じたことのない不安が頭を支配していた。
 ソルティーの事を何も知らない自分がもどかしい。何をすれば彼が目を覚ますのか判らない。
 ただ見守るしかない自分が腹立たしかった。
『ソルティー……なんの夢を見てるんだろ……』
 魘されながら、たまに何かを呟いている風にも聞こえ、耳を側に近づけるが、聞こえるのは知らない言葉だった。
 その言葉をハーパーに聞いたが、答えは無かった。

「殺してくれ」

 それがソルティーが言い続ける言葉だった。
 彼が恒河沙に教えるはずもない言葉であり、ハーパーが口に出来る言葉でもなかった。
 ただハーパーだけが、否応もなくその言葉に深い闇を感じていた。

 ソルティーの見続ける悪夢を。





「私だけを残して逝かないでくれ、早く私を自由にしてくれ。お願いだ、今すぐ私を殺してくれ」
 繰り返す呪文の様に、ソルティーは暗闇の中で呟き続けた。
 どれだけの時間が流れたのか、夢の中では測る事は出来ない。ただ、連続する悪夢だけが彼を襲い続け、砕けそうな心が亀裂の音を立て続ける。
 幸せな時、好きだった人、自分を愛してくれた周囲総てが既に過去であり、本来は思い出すことすら無くなっていた月日が浮かんでは消え、そしてまた浮かぶ。そのどれもが、今となっては悪夢でしかない現実なのだ。

――ねえ、ソルティアス様、どちらのお色がお好きですか? 私は此方、ね、綺麗でしょ?

 可愛らしい幼い少女が、自ら手折った二輪の花を差し出す。自分は確か右の青い花を好きだと言った記憶がある。
 その記憶通りに少女が微笑んだ。

――ではどうぞ。胸に飾って下さい、きっと勲章のように見えます。私は此処に。

 言われるままに花を胸に飾り、少女は自分よりなお美しい金色の髪に赤い花を飾り、物語に出てくる様な舞踏会の真似をしたのだ。
 柔らかな細い指先を優しく握り締めた時に、幼心に彼女を護るのだと自分は誓った筈だった。
「アルスティーナ……」
 自分より確か四歳年下だった彼女の名を口にする。
 頬に止めどなく涙が溢れ、ソルティーは目の前の幻影に近付こうとしたが、そうすることで消えてしまうかも知れない不安に動けなかった。