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刻の流狼第二部 覇睦大陸編

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episode.8



 リグスハバリ、別名覇睦大陸。紫翠大陸の三倍近い広大な大陸は、戦神に見初められた大陸とも言われていた。
 何時の時代、何時の時も、大陸内の何処かで必ず戦が起き、二年に一度の割合で地図が書き換えられる。
 力で力を支配する此処では、平和が続く国は少ない。
 しかし逃げ出す場所も無いこの大陸の人々は、懸命にその日の生を明日へ繋ぐ為に生きようとしていた。


 * * * *


 夢を見ていた。
 今自分の見ている光景が総て夢だと知りつつ、ソルティーはその夢の中から抜け出せずに、耐え難い悪夢を見続けていた。
 暗い深淵とも言える闇の中、一人佇む彼の耳に、大勢の悲鳴が聞こえる。
 助けたいと思い、その悲鳴の場所まで走る。するとその声は掻き消され、また別の場所で悲鳴が上がる。そして彼はまた走り出す。

 走る。消える。走る。消える。走る。消える。

 同じ事を何度繰り返しても、彼が誰かを助ける事は出来なかった。
「誰なんだ、私を必要としているなら姿を見せてくれっ!」
 声を張り裂けんばかりに闇に響かせても、誰も彼の前には姿さえ見せてはくれない。
 悲嘆にくれ、それでも声の方に走り続け、漸くそれは現れた。

――此方ですっ、早くっ!
――待ってくれ、どうして私だけが行かなければならないんだっ!

 一人の男が少年の腕を握り締め、長い廊下を必死に走っていた。男の手はその強さを表すように指先が白くなり、表情も険しい。
 まるで何かに追われるが如くの形相だ。
 そして力任せに走らされる少年の顔にも、別の焦りが浮かんでいた。

――この手を放せっ、私の言う事が聞けないのかっ!

 少年は何度もそう叫んだ。彼の必死の思いは、掠れた声に表れている。だが男は少年の訴えの一切を聞かず、握り締めた手も力を緩める事はない。
 真っ直ぐに、ただ真っ直ぐに二人は走る。遠くに現れた扉を目差して、ただひたすらに。
「…駄目だ、行っては駄目だ!」
 いつの間にか現れた扉に気付いたソルティーは、今までとは全く違った何かに突き動かされるように叫び、男の前に飛び出した。
 両手を広げて彼等の前に立ち塞がっても、男と少年はソルティーが見えないのか止まろうとはしない。
「止めてくれ、連れていかないでくれ!!」
 ソルティーの願いも虚しく、二人の体がソルティーをすり抜け、走り去る。

――早くこの中へっ! 術師が集まっておりますっ!
――嫌だっ! 私よりも父上や母上をっ! アルスティーナッ!!
――なりませんっ、さあっ早くっ!!

「何故私だけが逃げられると言うのだ」

――何故私だけがおめおめ逃げられると言うのかっ!

 止められなかったやるせない思いで振り返った場所では、少年は男の手で部屋の中へと押し込められ、聞き届けられなかった叫びは、ソルティーの呟きと同じだった。
 少年を部屋に送った男は、泣きながら力の限りにその扉を閉め、少年が出られぬ様に押さえ続けた。

――貴方様さえ無事なれば、この国が滅びる事は無いのです。未来永劫、御血筋続く限り、ですからどうか生き延びて下さい。

 涙ながらの男の言葉を最後に、男も閉ざされた扉も消えていった。

「……そうか、そうだったな」
 何も無くなった闇の中で、ソルティーは呟く。
 力無く項垂れ立ちすくんだ耳に、また悲鳴がこだまする。
「違う……違う……」
 耳を塞ぎ、悲鳴を遠ざけるが、こびり付いた様に消す事は出来ない。


「違う、違うっ、違うっ!! 悲鳴など聞こえなかったっ、聞こえなかったんだっっ!!」



「誰も、助けを呼ぶ事も、悲鳴を上げる事も出来なかったんだっ! 誰一人、誰一人として、私は助けられなかったっ! それどころか私は……。――教えてくれ、私はどうすれば良かったんだ。私に何か出来る事が有るなら、誰か教えてくれ……、教えてくれっ!!」





 額に滲んだ汗が肌を伝い、また一つシーツへ落ちてシーツの染みを濃くする。遅れて汗を拭う布が忙しなく動いても、苦痛に震える瞼が開くことはない。
 吸わせた汗の分だけ重くなった布を握り締めているのは、心配と不安を子供のように浮かべた恒河沙だった。部屋の片隅ではハーパーが微動だにせず、体を休ませている。
「ソルティ……」
 呼びかけても彼から返されるのは、苦しそうな呻きだけだ。
 恒河沙は握っていた布をテーブルに置かれていた桶の中に放り込むと、さっきまで座っていたベッドの横に置いた椅子に座り直し、また湿り始めていたシーツに肘を着く。
 気を紛らわす様に、ソルティーの額や頬に張り付いた髪を指先で除け、夜を仄かに照らす部屋の灯火の中でも綺麗に浮かぶ耳の飾りをそっと撫でた。
『お守りなんだから、ちゃんと仕事しろよ』
 こんな部屋の中では、どれだけ窓から陽差しが照らしても、彼の綺麗な金色の髪が輝いてくれない。目を覚ましてくれないと、空のような瞳が見られない。
『早く起きろよ……』
 それは四日も言い続けた言葉だった。



 ソルティー・グルーナが突然倒れたのは、もう五日近く前になる。
 唐轍からの跳躍を無事に終え、リグス最初の街イヴァーヴに到着した直後の事だ。紫翠での彼の体調は疑う所は一つもなく、跳躍をする前の術者からの事前説明に場所でも、彼が不安を口にする事はなかった。
 覇睦への期待や跳躍への不安に恒河沙の方が浮き足立っていて、それを落ち着かせる事に全員の意識が向いていただけかも知れないが。
 跳躍その物も、須臾の感覚では何の落ち度もなかった。力が弱まる期間ではあるが、風壁を越えるだけの術者の能力は最高位に属し、擣巓での跳躍よりも遙かに体への負担がない。巨体を持つハーパーだけが単体で跳ばされたが、ソルティーと自分達は同じ結界に包まれての跳躍だった。その中で彼だけがどうにかなるというのは、普通では考えられない。
 しかし彼だけは、そうではなかった。
「……後を、頼……む……」
 イヴァーヴの外門をくぐると同時にハーパーの腕にすがり、浅い息で言い終えて直ぐに彼は気を失った。
『ソルティーッ!?』
『お、おいっ』
 慌てて恒河沙と須臾が駆け寄るが、ハーパーに抱きかかえられたソルティーの顔色からしても、普通でない状態であるのは直ぐに判った。
 血の気は完全に消え去り、呼吸は浅く乱れきっている。呼びかけても返事はおろか、目を開ける様子もない。
『い、医者、医者呼ばないとっ!』
『それより医術師だ!』
 咄嗟に走り出そうとした二人を止めたのは、一人冷静なハーパーだった。
「二人とも落ち着くのだ。医師を呼ぶ必要はない」
「でもっ!」
 ソルティーを両腕で抱き上げたハーパーが語っても、完全に落ち着きを無くした恒河沙は食い下がろうとした。
「大事無いと言う言葉が理解できぬか!」
 ハーパーの声は咆哮に近く、二人はその声の鋭さに自然と萎縮させられた。
 周囲の人々も何が起きたのかと遠巻きに見始める。人通りの少ない外門周辺であっても、ハーパーの姿だけでも人目を引き易く、このままでは噂に呼び寄せられる者も出てくるだろう。
 いやこの様な場所だからこそ、警備の者が多い。此処で言い争いを続けても、要らぬ疑いを掛けられるだけだ。
「場所を移そう」