刻の流狼第二部 覇睦大陸編
「おそらく切り替わったきっかけは、間違いなく右目の呪文でしょう。結局この呪文の正体までは、私には判りませんでしたが。――しかし呪文はあくまでもきっかけであって、原因というか、要素というか、それは彼自身が元から備えていたものです」
この説明の前半は須臾の予想通りであったが、後半は思いもよらない話であった。
「多重人格は、産まれもっての病だと思って下さい。しかもそれは、なりやすい人となりにくい人がいる程度の事です。圧倒的になりにくい人が多い、それだけの話です。――ただ、私の知る限りでは、異なる人格を有する者の特徴として、切り替わりがはっきりとして居るんです。まあ、話を聞く限りは、彼の変化もそうの言えるには言えるのですが……」
それからゼラドンは一枚の紙を用意して、その上に幾つかの丸を描き、恒河沙の症状の簡単な説明をその上で始めた。
「同じ器に存在する限り、同じ力を持つ自我は器の取り合いをします。もしくは奥に逃げ込む等のね。その場合は、他の自我が逃げる自我に押し出される感じが僅かでもあります。たとえ一方が逃げ、もう一方が表に出ようとしても、同じ器に別の個として存在する限り、摩擦的な流れが残るのは当たり前なんです。しかし彼の場合、切り替わりとなる様な物は無く、一切今の彼という自我に何らかの圧迫が感じられなかった」
とても信じられないとゼラドン自身が首を振り、須臾はそれ以上に困惑した。
ゼラドンが描いた恒河沙と言う器の中と、恒河沙自身を何度も見比べ、どこまでそれを信じて良いのか判らなかった。
しかしそれは須臾に説明をしている彼自身も同じ思いなのか、説明をする途中に何度も首を捻り、自分の見た物の表し方に言葉を詰まらせる。
「始めは私も記憶喪失と疑わなかった。実際、病例としては多重人格は極希な症状です。私自身まだ彼で四人目ですからね。――しかしその中でも判っているのは、多重人格では、自我は表に出ない場合でも成長もしくは、知識はある程度育っていると言う事です。別の人格としての、そう、個性と言えば良いですかね、それが在る。だから切り替わった時、その人格は確かな人格としてそこに存在する。それが彼の人格は無から、言い換えれば赤ん坊のままで形成されている。そう言う例も確かにある事はあります。しかしそれは、赤ん坊のままで居たいと言う心の現れで、それ以上育つ事は有り得ない。それが彼の場合は、赤ん坊から始まりながら当たり前の様に年相応の知識を吸収し、記憶する。凡例としては、記憶喪失と同じ道を辿りながらの未成熟な人格だと言えます」
それがどういう事なのかと聞くと、ゼラドンは眠る恒河沙から須臾へ顔を向け、
「とても言い難い話なのですが、私が除いてきた事実を簡潔にするなら、彼は記憶を失ったのではなく、以前の自我を失ったのです。今の自我は、彼にとって当たり前に存在する自我なんです。――私にはもう過去の自我が本来の自我なのか、それとも今の彼が本当の自我なのかは判断できません。ただ一つだけ言えるのは、前の彼の自我は今の彼を動かそうとはしていない。これは、貴方にとって不本意な解答かも知れませんが、その自我は役目を終えた様に消えようとしている。第三者の手では到底戻す事は不可能でしょう。もし無理矢理にでも戻そうとすれば、心理的な崩壊まで引き起こしかねない。そう言った奥深くに自我は自分の意志で今は留まっています。そして今の自我は、彼という器に無理なく納められた自我なのです」
記憶喪失よりも厄介な事を教えられ、須臾は暫く何も考えられなかった。
信じたくはなかったが、否定するだけの材料がない。いや、ゼラドンの言葉が本当かも知れないと思える事の方が多かった。
しかし、最後に言われた言葉が何より須臾には衝撃だった。
「彼の人格はまだ他にもありました。それがどういうモノなのか、ただの一表層人格なのか、それとも、自我を持つ心意的な人格なのか、それは今の段階では触れる事は出来なかった」
また自分は忘れられてしまうのかと考えると怖くなる。
嫌われるよりも、誰なんだ、と言われた方が何倍も心の痛手になって残るのを、もう二度と味わいたくなかった。
もう昔を取り戻そうなんて考えられない。それだけは確かに思った。
「須臾、何先刻から黙ってんだ?」
宿への帰り道なのを思い出し、慌てて恒河沙に何でもないよと笑ってみせる。
恒河沙には結局何も判らなかったとだけ教えた。
――そうだよ、僕は覚えていて貰えさえすれば良いんだ。
そう言い聞かせ、ゼラドンの言葉を忘れようとした。
掛け替えのない時間は、ちゃんと恒河沙の中で残っていた。それが二度と浮かび上がってこないかも知れないけれど、それを彼が捨て去った訳ではないのだ。
――要はこれからだよ、これから!
「さって、今日は何食べようか? 宿の食事より、ちゃんとした店で食べたいよね?」
気を取り直し声を上げて恒河沙の背中を押す。
「それって、前の街でも言ったぞ」
「何言ってんの。そんな昔の事を掘り出すと、こうするぞ!」
「わははははっっ! や、止めっ! き…ひぃ」
人目を憚らず須臾は容赦なく恒河沙の脇腹をこそばし、逃げる彼を謝るまで追いかけ回した。
今この瞬間を、決して忘れないでと強く願いながら。
episode.10 fin
作品名:刻の流狼第二部 覇睦大陸編 作家名:へぐい