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刻の流狼第二部 覇睦大陸編

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『まだまだ試していない手が沢山ある筈なんだ。此処の医者なら大丈夫かも知れないだろ? お前だって記憶取り戻したいって言ってたじゃないか。お願いだから、どうでも良いなんて言わないでよ。僕と過ごした時間、邪魔だなんて思わないでよ』
 須臾だけの知る時間。それがどんなモノなのか恒河沙には判らない。
 出来るならそれを叶えてあげたいと思ってはいるが、もし記憶が戻ったら、その時今の自分がどうなるのか?
 四年近い月日が恒河沙にとって決して短いものではない。しかもその中には、ソルティーとの時間があった。
 けれど、
『わかった、須臾の言うとーりにする……』
 知らない十二年間よりも、知っている四年間のほうが大事だと思う。しかしそれ以上に、須臾の気持ちを無にしたくはない。
 親の居ない自分を真実育ててくれたのが彼だというのは、村の人々から聞かされていたし、疑うべくもない事は彼と過ごした月日が証明してくれている。きっと誰よりも自分を大事にしてくれて、一番に考えてくれている。
 ソルティーとの事は気に掛かるが、やはり自分が今在るのは、総て須臾が居てくれたからこそだ。それを無視するなんて、幾ら恒河沙であっても出来はしなかった。
「……そう言う訳なんだけど、良いかな?」
 気を取り直しソルティーに多少引け目を感じつつ出した言葉に対する答えは、酷く冷静な言葉だった。
「勝手にしろ。但し総て自分達で決めてくれ」
 二人を見もせずソルティーは立ち上がると、休みは終わりだと一言告げ、先に道へ戻り始めた。
『ありゃりゃ…』
 長引く様ならその場で解雇であり、それを決めるのはソルティーではなく自分達だと言われ、流石にこれからの事を慎重に考えさせられる。
――こっちに来たら幕巌との約束も通用しないか。
 紫翠に居る間は、解雇されない自信が在った。
 しかし覇睦に来た今は、何時そうなっても仕方がない状態だ。ぬるま湯のような雇用状態に浸りきっていたのを自覚させられ、もう一度気を引き締め直そうと誓う。
――せめてもう一つくらい何か仕事しないと、帰って遊べないからね。
 今の収入でも充分な筈だが、もう少しゆとりのある生活を楽しみたい須臾は、取り敢えず野盗でも襲ってこないかと心の底で願いながら雇い主の後を追った。




 そしてその遙か上空から、また彼等を見つめる瞳があった。
「記憶が……無い?」
 声は微かな焦りを奏でていた。
「あの御方がそんな失敗をする筈がありませんわ。でも、確かに……」
 狼狽え、そして確信する。何かしらの調和の乱れが生じている今を。
 小さくなっていく四人を見送り、どうしても纏まらない考えに溜息をつく。
「仕方ありませんわね、何処かでそれとなく近付きましょう。……ええ、そうですわ! お近づきになれれば宜しいのですわ! そうしましょう……私ってば、何を期待しているのかしら。ああ、でも、もしかするとですわ。キャッ、恥ずかし!」
 そう言い残し波紋の中に投じる姿は、頬を赤く染めはにかむような微笑みに彩られていた。





 協和界国オゥハンは、リグスハバリ東部における最大の王国である。多数の自治領から成り、各々の政策方針を中央で纏める模範的な国家体制は、隣国の軍事国コロックも一目を置いている程だ。
 そのオゥハンの商都の一つヤスンで、ソルティー達は三日目の朝を迎えていた。
 恒河沙の医者巡りが始まったのだ。
 須臾の予想通り、ヤスンには多くの医術師が集まっていた。到着後すぐに街中の医師の所在を全て調べ上げた彼は、あまり気乗りしてはいない恒河沙を引っ張り、その一つ一つを懇切丁寧に回り続けている。


「ソルティー居る?」
 昼を少し過ぎてから、近頃気兼ねが無くなったのか、扉を全開に飛び込んできたのは恒河沙だった。
「ノックぐらいするのが礼儀だろ。須臾は教えてくれなかったのか」
「あ、ごめん」
 一応謝り、開いた扉を二度叩く。
「これで良い?」
「……ハァ…、一体何の用だ。医者はどうしたんだ」
「明日来いって。今度の所はなんか有名な所みたいでさ、人がこーーんなにいっぱいで、予約しなくちゃ看てもらえないんだって。朝から一つ行ったし、次のが最後だから今日はお終い」
 余程医者巡りからの解放が嬉しいのか、一言一言に明るさが感じられた。
 それでもあまりの診療時間の短さや、なんの変化も見られない恒河沙を見れば、良い結果が出た例しは無いのだろう。彼にすればその方が良いのだが、望みを捨てきれない須臾の心労の方が、ソルティーには気懸かりだった。
「それで、用は?」
「ん、前に約束しただろ? 体の調子が良くなったら、一度手合わせしてくれるって。宿の裏にさあ、空き地があるんだよ。暇だったら、今からそれしない?」
 一月以上も前の話に一瞬戸惑う。
 そんな事を言った様な気がする程度の記憶を思い出し、少し時間を掛けてその返事を捜した。
「忙しい?」
「……いや、構わない」
「んじゃ裏行こ、裏」
「ああ、ハーパーも来てくれ」
 剣だけを装備し、何時も通り床で瞑想する彼に随行を頼む。
 堅い緊張した面持ちの言葉に、無言でハーパーは立ち上がり、それに恒河沙が不満を言う。
「何でハーパーが来るんだぁ?」
 最近全くソルティーと二人で話す機会が見あたらず、折角見付けた口実をあっさり台無しにされた気分だ。
「我が居ては不服か?」
「……そんなんじゃないけど」
 はっきり邪魔だと言えば良かったと直ぐに思ったが、ハーパーを連れていくと言った本人に目を向け、思いっきり無視されて何も言えなくなる。
――俺、なんか悪いことしたかな。……やっぱり、足止めされて怒ってるのかな? だったらどうしよう。
 これで二度も怒らせてしまった事になる、と徐々に気落ちしていく恒河沙に、声を掛けたのはハーパーだった。
「何をして居る。行くのではなかったのか」
「あ、うん。行く……」
 ソルティーの姿は最早なく、ハーパーだけが廊下で恒河沙を待っていた。
――どうしよう、どうしよう、どうしよう……。
 空回りする気持ちが繰り返し打ち寄せてくる。
 ハーパーの背中を追いながら、役に立たない自分が歯痒くて仕方ない。


 宿の裏には随分以前に壊された建物の土台だけが、風に晒される場所が在る。四方を建物の壁に囲まれていたが、剣を振るうのに何の差し支えもないほどの広さがあり、前を遮る物もない手頃な場所だった。
 そこで二人は充分な間合いを取り、向かい合い剣を握る。
「なあ、これで負けたら、勝った方の言うことを一つ聞くってのどうかなあ?」
 大剣を一度振り下ろし、たった今思いついた先に繋がるかも知れない約束を口にする。
「良いだろう」
 ソルティーは装飾の無い方の剣を抜きながら、素っ気なく返事をする。
――何だよ、ぜんぜんやる気がねぇの、自分から言い出したくせに…。
 二刀だと思っていた剣も、片手に構えるだけに終わったソルティーを見つめ、相手にされていない自分が腹立たしくなる。
――絶対本気にさせてやるからな!
 今まで剣だけを信じてきた。だから、何でもこれが解決してくれる筈だと、握り締めた柄に一層力を込めて胸の蟠りを払い除けようとした。