刻の流狼第二部 覇睦大陸編
episode.10
風壁より来る災禍。
それは如何なる大陸であろうと等しく訪れる、拒みようのない災害だ。
理の力の凝縮した壁は、年に数回その道を僅かに開く。それは誰がそうしたのでもなく、人とは違う力の流れが存在する結果なのだろうと、何時の頃からか誰かが言った。
その流れは、時に人の営みの中にまで押し寄せ、現在までに幾百千の命を奪い去っていった。
風壁の流れは、人には防げない。人の目に映ることなく、流れを予知する事も出来ない突然の猛威は、大地を抉り、人を飲み込む。
そして残るのは、災禍が訪れた事実だけである。
* * * *
四人は六日前にイヴァーヴを出立していた。
許可証を手に入れるまでには十日近く掛かったが、その間に然したる出来事は無かった。街の片隅で殺された者の事など、須臾の耳にも入らない小さな事だったのか、ソルティーが自警に問われる事はなかったのである。
しかしあの日、明け方近くに帰ってきてからのソルティーは、何かが変わっていた。
自分達に見せる表情や態度は相変わらずだったが、確かに何かが変わったと恒河沙は感じていた。
言葉にするのは難しく、それでも気になって近くまで行くが、言葉でも仕草でも無い何かに拒絶される。そう言う感じなのだ。
――何があったんだろう?
あの日、彼が何処に居たかは誰も知らない。
壁越しに聞こえたハーパーの驚きの声に、ただの一言もソルティーは返さなかった。
ハーパーはそれ以来、何も聞いてはいないようだった。でもそれは、何かに気付いたからの様に思え、恒河沙だけが胸に何かがつっかえたまま旅を続けていた。
小国と言っても紫翠と違い、国土は恒河沙の知る小国の範囲を超えていた。
国益の違いか、村の大半も町と呼んでも良いくらいで、その発達ぶりは驚くしかない。
「なあ、フィスまで後どれくらいあるんだよ」
次の村まで丁度中程あたりで小休止を取り、道端に腰を下ろすと地図を眺めていた須臾に聞く。
聞かれるまま須臾は地図の上を指で測り、今まで自分達が進んできた距離と、この先の道のりを比べて眉を寄せる。
「ん〜〜、知らない方が良いような気がする」
街を出たからと言って国を出たわけではない。しかも、三ヶ国に跨る山脈が行く手を阻み、大幅に迂回する道のりを選んでいるのだから、この国を出るだけで後一月近くは必要となり、フィスに着くにはそれから三月は掛かるだろう。
「ソルティー、山行こう、山ぁ。そっちの方が早いって、絶対」
「地図の上を辿るだけならな」
ソルティーはにじり寄ってくる恒河沙にそれだけを言う。
「でもさあ、山つっきった方が早いんだろ? そう食堂のおっさんも言ってたぜ」
「道も無い、案内する者も居ない。迷えばそこで旅は終わる」
「う〜〜」
「それに食料はどうする? 無くなったからと言って、買い出しは不可能だ。高山植物だけで食いつなぐのか?」
「そうなったら、山の植物は全部恒河沙の腹の中だね」
からかい半分で上にのし掛かってくる須臾を恒河沙は払いのけるが、言われた事に対しての反論が思いつかない。それどころか、この行程をしているのは自分の所為ではないのかと考えてしまう。
「でも、こんな旅ばかりじゃ、俺達何の為に居るのかわかんねぇ」
期間が長い分何もしない日が多く、剣を構える事も少ない。
野盗が出てきてくれればそれなりに満足できるのだが、今の所そんな雰囲気でもない。
「そうだな……」
「え? あ、違う、別にこの仕事に不満があるんじゃなくて、その……」
言葉をそのままに受け取られて、初めて口走った事の意味を知る。
何もせずに終わる仕事かも知れない。ソルティーは最初にちゃんと告げていたし、忘れていた訳ではない。それに護衛だけで終わった仕事も過去にしている。
それでも未知の大陸だと言うだけで、期待していた面があったのも事実だ。
此処ではそう易々喧嘩をする訳にもいかず、欲求不満だけが積み重なっていく。
「恒河沙は暴れ足りないんだよね。強い奴等がごろごろしていると信じてたからねぇ。まぁ、僕としては野蛮な事はしたくないから、今の方が嬉しいけどね」
「私も同じだ」
「そんなぁ……」
「嫌な顔をしない。これが僕達の仕事なんだから」
ふてくされた恒河沙の頬を横から引っ張るのは、須臾なりの雇い主への気遣いと言えよう。もちろん恒河沙がこれ以上、無理を言わないようにだ。
じゃれあう二人からソルティーは目を反らし、無意識の内にその無邪気さを否定していた。
――何を羨んでいる。馬鹿らしい。
日に日に険悪になりそうな二人への態度を、ソルティーは懸命に押さえ込もうする。これが嫉妬なのだと自己分析を済ませ、理由と原因を理解し、気持ちの上で納得していてもどうする事も出来ず、ただ努力してそれを表に出さない様にしていた。
「主……」
ハーパーの声に何も応えない。
自分を心配する彼に、何も言葉が見つからなくなってきていたのだ。
心配するな、大丈夫だと、言えば安心させる事が出来なくなった今、何を彼に言えるのか判らない。
血のこびり付いた服を見て、総てを悟った彼にソルティーはもう何も言えなかった。
まるで物を壊すように人の命を絶つ。
情けも哀れみも感じずに、ただそこに存在する物を破壊するかのように、淡々と剣を振り下ろす。
ソルティーは時折そんな一面を見せる。少なくともハーパーは何度も彼が作りだした凄惨な現場を目の当たりにしてきた。
その時の彼はまるで別人であり、時にはその記憶さえも無い時があった。
だからハーパーは傭兵を雇う事を提案した。少しでもソルティーが剣を握らずに済めばと。
結果としてその思惑が正しかったかのように、須臾達を雇ってからは、彼が狂気に支配される事は無かった。――あの夜までは。
また訪れてしまった変調を前にして、これからどうするべきか。どうあるべきか。
喩え竜族の智がどれほどであろうと、こればかりはハーパーでさえも答えを出せない事であった。
「ソルティー、忘れていたけどお願いがあったんだ」
一通り恒河沙で遊び尽くしてから、語りかけてくる須臾の声音は多少真剣味がある。
「次の国、結構大きいんだよね? ちょっとだけ、僕達に暇をくれない?」
「何故?」
「ん、こいつを医者に診せたいから」
「止せよ、俺そんなのいらないって言ってるだろ!」
頭を須臾に抱えられ、身動きもままならない状態で恒河沙は怒鳴る。
『記憶、取り戻したいんだろ?! 此処に来たのも、半分その為だったじゃないか!』
『んなのなくったって、どうでもいいだろ! 記憶がなくったって、俺はだいじょーぶだ。それに、いつかかってにもどるかも知れないじゃないか』
『何時! 一年後? 二年後? 十年先かも、死ぬまで戻らないかも知れない何時かを待つって言うの? もし、三十年もしてからだったらどうするの! 四十何歳の体で、十二歳までの記憶持っててどうするんだよ! 何時かあるかも知れない事を待つなんて、僕は許さない! 僕は可能性がある事は全部試して、それで駄目だったら諦めるって決めたんだ』
『須臾……』
作品名:刻の流狼第二部 覇睦大陸編 作家名:へぐい