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刻の流狼第二部 覇睦大陸編

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「自分を証明できない事が、これ程大変な事だと知らなかった」
 最低限必要な、自分の出生した国、身分、そして越境の理由。そのどれもソルティーは持ち合わせていない。紫翠で何の苦労もなくこの大陸までこれたのは、偏に幕巌という人物に出会えた幸運からだった。
 金を積む事でこの国だけは出られそうだが、それが何時まで通用するか判らない。
 下手をすると、不穏分子として投獄されかねない危ない道である。
「私は知らない事が多すぎる」
 肩を落としながら見下ろす地図には、覚えている国など皆無に近い。それだけでも充分に辛いと感じるのに、それ以上に人としての最低限の知識が足りず、何れはそれが自分の足下をすくう事になるかも知れない。
「今から学べば良き事ではないか。我等も今でこそ限りある英知と共に在るが、始まりは同じ無だった。恥ずべきは、己が無知である事にすら気付かぬ事ではないであろうか」
「無知に気付かない事か……、ああ、確かにそうだ。昔の私は確かにその事に気付かなかった。そうだな、今からでも充分間に合う。努力するよ、ハーパー」
「うむ、我も主の尽力の随身となろう」
 ハーパーから贈られる真摯で頼もしい言葉と、力強い頷きは、何事にも代え難い絶大な後ろ盾であり、応援でもあった。
 だが、次にハーパーがもたらした提案には、ソルティーは凍り付く事となる。
「それはそうと、主よ。このまま南へ下り、アストアへ進むのも一つの道ではないか?」
 大陸の南部に広がる広大な森。その森全体が一つの国として成り立つのが、アストアと言う国である。他国との関わりを極端に嫌い、外交らしい外交を殆どする事のない国で、一般的に見てもあまり良い噂は聞こえない国でもあった。
 しかしプランネイジよりも更に東西に長い国土面積を考えれば、森に入りさえすれば、煩わしい越境を確実に半分以下に減らせるだろう。
「却下する」
「主、大人げない事とは思わぬか?」
 その言葉に言い返せないのか、ソルティーはハーパーから視線を逸らし、珍しく無視を決め込み、その姿にハーパーは呆れた。
「何故そこまであの者達を頑なに拒むのだ。その様な時代は既に終わったのだ」
「………」
「今は互いに手を取る事が重要ではないか」
「………」
「何より、我等以外で事を理解出来るは、最早彼等しか居りますまい」
「………」
「主よ……」
 何を言っても耳を貸そうとしないソルティーに、自然と溜息が出てくる。
 ソルティーにとってアストアが禁句なのはハーパーも判っていた。とは言え、まさかこの歳になってもこんな意固地な態度を見せるとは、長年付き添ってきたハーパーでも考えたくなかった。
「アストアを抜ける事が我等にとりどれ程……」
 再度説得を試みるハーパーが話し始めるや、ソルティーは立ち上がる事で強引に打ち切った。
「主」
「二度とその名を私の耳に入れるな」
 思いの外根深い嫌悪が露わな言葉と、ハーパーの視線を避ける仕草。
 産まれた時からの付き合いの中、見た事のない反応ではないが、極めて珍しい行為に正直戸惑ってしまう。
 相手の考えが判ってしまうのは、良い事ばかりとは言えない。
 ソルティーはハーパーにだけは理解して欲しい反面、気持ちの何処かでは、誰にも理解されたくない思いがあった。それは“自分しか”と“自分だけが”の違いであり、同じ経験を持たない者への懐疑でもあった。
 世界中の誰も信じなくとも、唯一人、ハーパーだけはと感じていながら、それでも考えてしまう。

 そんな自分自身を愚かだと判っていても。

「……気分が優れない、少し外へ出てくる」
 子供の様に音を立てて閉められた扉を見つめ、ハーパーは自分とソルティーとの立場の違いを改めて実感した。
 彼がアストアを嫌う理由は理解しているが、遺恨を残し続けるにはハーパーは時間を過ごしすぎていた。何よりも、最も彼が嫌悪する対象は、既にアストアに存在しない事実があった。
「心の整理まで出来る訳では無いのであろうな」
 大人の意見を押し付けてしまった事を反省は出来ない。
 何時までも子供のままでは居られない今、何をするのが一番の方法なのか、誰よりも知っている筈の自分の主を、ハーパーはただ待ち続けるだけだった。





 街の中央には噴水が造られ、小さな広場になっていた。椅子は無いが、掘り下げられた広場の周りには僅かな階段があり、そこに腰を下ろしているのはソルティーだけだった。
 思わず飛び出してしまったが、此処に来るまでに怒りは薄れてしまった。
「ハァ……何と言って謝ろう」
 謝らなくても彼が許してくれるのは知っている。だから余計にその気持ちの甘えられない。
――アストア、…か。
 名前を思い浮かべるだけで気が滅入りそうになる。
 この大陸に住む限り、誰でも一度は耳にしたことのある国の名前。いや、国と言うのは語弊があるだろう。
 この世界で唯一確立された形、場を有するそれを人は森と言い、畏怖の対象とされていた。
 不可侵の条約に護られ、人を審査する森。
 そして世界各地に散らばる森の長と言うべきアストア、またの名を“アスタートの森”と言った。
――何が不可侵だ。ただの臆病者の集まりではないか!!
 拳を握り締め、未だ人の世界に存在するアストアを許せないと思う。
 剣の行方次第では、この先必ずアストアに足を向けないとは言い切れないが、出来るならアストアにだけは入りたくない。それがどんなに子供じみた感傷であっても。



「あれ? ソルティーは?」
 てきっり部屋に居るものと思いこんでいた雇い主の不在に、須臾は口元を歪ませる。
「何用だ」
「ん、あのさあ、例の剣の事調べがついたって、店の奴が来たからさ」
「我が聞こう。此処へ呼んでくれまいか」
「了解。恒河沙、こっちで聞くって」
 隣の部屋に向けた呼びかけに間を空けず、武器屋の主人を連れて恒河沙が入ってきた。
 主人の顔は竜族の姿を見て更に青ざめ、指先は微かに震えていた。
「で、調べがついたそうだが」
「ソルティー居ないけど良いの? 俺、捜してこようか?」
「否、今は主を一人にしてやって貰えぬか。さあ、お主の話を聞こう。手短に結果だけを語るのだ」
「は……はい。フィスまでは、形跡がはっきりしていたんですが、……そこから先はさっぱり」
 ハーパーを前に緊張した声音だが、手元に用意していた紙を見ながら、主人は命令通り簡単に結果だけを口にした。
 その後ろで、溜息をついたのは恒河沙だった。
「何だよ、たったそれだけ? 手ぇ抜いたんだじゃないのか」
「じょ、冗談じゃないっ! 俺だって命が欲しいんだ、しかし……」
 恒河沙を振り返って主人はそう訴える。
「しかし、何だよ?」
「俺はギルドの者じゃねぇんだ。この品物は、ギルドの手でフィスに運ばれた、いわゆる裏物だ。おいそれと手が出せると思わないでくれ」
「ふ〜ん」
「これ以上は調べられねぇ。命が欲しくて此処まで調べたが、これ以上首を突っ込んだら、今度はこっちで命がねぇ」
 主人の言葉を総て信用する事は不可能だが、その顔に浮かぶ焦りは本物だった。