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刻の流狼第一部 紫翠大陸編

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 もしソルティー達に出会わなければ、梨杏の窮地にすら自分は助けようとも思わなかっただろう。
 結果として傷を負わされるだけになったとしても、助けたいと心の底から思い、体が勝手に動いていた事には、清々しささえ感じている。そんな気持ちにずっと背を向けていた自分が、どれ程愚かだったかを、行動を起こして漸く気付くことが出来た。
「さてソルティー殿達はお疲れじゃろうて、部屋に戻られた方が宜しかろう」
「どうする?」
「御言葉に甘えよう」
「うん」
 残っていた布を巻き終え、恒河沙も立ち上がりソルティーの後に続いた。
「苑爲もお帰り。その姿じゃ、医術師が来る前に帰りなさい。端雅梛は心配いらん、死ぬような怪我では在るまい」
「……はい」
 端雅梛を何度も心配そうに見つめた後、苑爲も神殿を後にし、鈴薺と端雅梛だけが残った。
「苑爲のあれは自分からか?」
「はい。止めたのですが……」
「よくよくお主の事が心配なんじゃろうて。どうじゃ? 苑爲に好かれるは、それ程悪くは在るまい?」
 からかう鈴薺に、端雅梛は本気で顔を赤くした。
「大司祭様、悪ふざけはもうお辞め下さい。それはそうと、恒河沙殿が大司祭様の悪癖を真似されて、苑爲の胸を触って男女の区別を致しました。ですから二度と、あの様な軽はずみな真似はしないで下さい」
 話を逸らし、いつもの堅い口調で言い返され鈴薺は顔をしかめる。
「つまらん、老い先短い老人の楽しみにけちを付ける者には、可愛い孫はやらん」
「都合が悪いときだけ老人にならないで戴きたい。そ、それにですね、私と苑爲はそう言う…か、関係では在りません」
 長い耳の先まで真っ赤になって否定する端雅梛を、鈴薺は笑い飛ばした。
 その笑いが神殿内にこだまする間に、梨杏が半分眠っている医術師を引きずりながら連れてきた。



「今日はご苦労様」
 宿舎の自室を前にして、ソルティーは恒河沙に話しかけた。
「でも、結局俺、失敗したし……」
「梨杏を行かせたのは俺の責任だ。悪いのは俺、お前は頑張ったよ」
 頭を撫でながら優しく言葉を出す。
「ありがと…」
「じゃあ、今日はもう寝るか。話は起きてからな」
「……うん」
 お休み、とソルティーは自分の部屋の扉を開けたが、恒河沙の動く気配はない。ドアノブを掴んだまま少し考えて後ろを振り返り、
「どうせまた潜り込んでくる事だし、此方に初めから居るか?」
「行くっ!」
 喜んだ子犬のようにソルティーの腕に飛びついて、恒河沙は部屋の中に入り込んだ。



 結果から言えば、端雅梛の怪我は深夜の見回り中に、突然現れた暴漢に襲われた事になった。暴漢には逃げられたとして、三人の自称義賊の事は当事者だけしか知らない出来事だ。
 恒河沙から見れば、暴漢に襲われて逃げる事は恥ずかしい事だが、此処にいる者は大抵そんな事を考える勇気も持ち合わせては居ない。この事は端雅梛の傷が癒える前に、自然と消えていくだろう。

 どんなに眠くても体が自然に朝になれば起きてしまう二人は、何時も通りに朝食を済ませ、ソルティーの部屋で恒河沙が二度目の朝食を食べている間に、ソルティーはふと昨夜の出来事を思い出した。
「そう言えば、お前、流暢にリグスの言葉が使えていたな?」
「……そうだった? 覚えてない」
 昨夜暴れた所為か、恒河沙の食べる量は普段の倍だ。
「あのごくぶとにガキあつかいされたら、なんか頭にきて」
「悪口だけは別か?」
「そういうわけじゃないんだけど……そうなのかなぁ?」
 言われてみるとそんな気がするが、考えても仕方がないので途中で考えるのを止めた。
 恒河沙の性格通り、思考回路も短絡的に繋がるのだと、ソルティーは勝手に解釈し、それは多分間違いではない。それでも、取り敢えずは彼が覇睦大陸に渡ってから、言葉の面で苦労することは無いだろうと思うと安心できた。
 若干、彼の都合の良さは感じられるが。
「恒河沙、食べ終わったら、一緒にハーパーの所に行くか?」
「行ってもいいのか? ……なら行く!」
 恒河沙は急いで残りを口の中に詰め込むと、ソルティーの腕を掴んで外に飛び出した。


 いつもの場所には、既にハーパー以外の先客が待っていた。梨杏、そしてこの庭の制作者である鈴薺。


『ソルティー殿は、どうして幕巌の話を引き受けたのじゃ?』
 鈴薺の見つめる先には、困惑気味のハーパーを恒河沙と取り合いながら、無邪気な笑顔を浮かべる梨杏の姿。老人らしい柔和な微笑みで子供達を見つめる姿には、大司祭の肩書きは見えなかった。
 そんな鈴薺の横にソルティーも腰を下ろし、見つめるのはやはりここに似合う三人だ。
『理由は、何もない。頼まれたから、引き受けた』
 何処の誰とも知れぬ自分を、幕巌は信用して頼んできた。それをどうして断る事が出来るのか。
『私は彼を信じているからな』
 鈴薺はその言葉に深く頷き、自分もそうだと告げる。
 もう二度と幕巌と会う事はなく、彼が自分の死を決定づけたとしても、友への信頼は変わりなく最後まで続くだろう。
『ハバリに帰りなさると聞いたが、苑爲と端雅梛を連れだしてはくれまいか』
『梨杏の間違いではないのか?』
『梨杏様をお連れするは襄還宗じゃ。阿倶頭様のご子息と梨杏様は、藩茄螺が手を廻してくれる。既に話は付けて居るよ』
 それが襄還宗が回帰間後にしか戦を始めない理由だ。
 他国に人質とされかねない王の一族を護るのが、最低限の臣下の役目。そして二度と神子を犠牲にしたくない藩茄螺の想いが、敦孔伐の再三の要請を退けていた理由だった。
『しかし、二人がそれに応じるだろうか』
『そうじゃろうな。それでも、私は孫が可愛いただの爺じゃから、孫の惚れて居る奴と生かしてしてやりたい。苑爲はあれの母親によう似とる。私がどれだけ反対しても惚れた男の元に行って、子供一人残してさっさと夫婦で死によるし、子供は子供で事もあろうに司祭になんぞに惚れよった』
 南美芭の亡くなった後、直ぐに次の神子は選出された。
 鈴薺の孫で名を香遠(かおん)と言った。当時八歳だったが、神子として力は秀でていた。
 嫌だと泣き叫ぶ香遠を説き伏せて神殿に連れてきたのは、入信して以来ずっと自分が面倒を見ていた端雅梛だった。
 香遠は子供心に神殿に行けば端雅梛と共に居られると思ってたのだろうが、現実はそれ程甘くはなかった。

「もう嫌よっ、こんな場所はもう嫌っ! 神子なんてなりたくなかった、ただ端雅梛と居たかっただけなの」
 十歳になる孫の叫びに鈴薺は狼狽えるだけだった。
 年老いてから授かった娘の残した大事な孫娘の望みは、何であっても叶えてやりたい。しかし自分の立場からそれを叶えるのは無理だ。
「どうして人を好きになったら駄目なの? 端雅梛に会っては駄目なの? どうしてよお爺様、答えてっ!」
 香遠の気持ちを知っていた端雅梛は、鈴薺に頼まれるまでもなく、自ら意志で神殿での勤めから退いていた。会わないで居れば、何時かは香遠も忘れるだろうと、誰もがそれを望んでいた。
「香遠……、端雅梛は聖聚理教の司祭だ。お前が神子でなくとも、一緒にはなれん」