刻の流狼第一部 紫翠大陸編
何を言っているか皆目理解できないで頭を抱えている間に、気付けば既にソルティーは二人のテーブルにいた。
此処から聞き取る事は出来ないが、取り敢えず無事に交渉が始まっていると信じ、ハーパーが何を言ったかを確かめるより、三人の同行を伺う事を優先した。
恒河沙と須臾が初めてこの店に訪れた時の事を、幕巌は忘れられない。
ハーパーとはまた違った強烈な印象で、心に刻み込まれていた。
今から丁度一年前に、彼等はこの店にやってきた。当時恒河沙は十四歳で、須臾も二十歳になったばかりだった。
地域や種族によって成人年齢はそれぞれで、一概に外見で判断を下す事は出来ないが、恒河沙はその凡例の許容範囲を逸脱していた。顔や体つき、どれを取っても彼は子供でしかなかった。
3フィアス有るか無いかの身長に、気の強さだけが際だつ大きな瞳。傭兵如何を問わず誰が見ても、彼は悪ガキの類にしか見られない。彼にとって外見などどうでも良い事かも知れないが、世の中は外見からまず最初の印象を引き出すものだ。
その恒河沙の後ろに控えていた須臾の高さ(3,6フィアス)も相まって、自信満々に店内に入ってきた恒河沙は小さな子供にしか見えず、仕事にあぶれ退屈をしていた傭兵達の暇つぶしとされてしまった。
「坊やぁ? どうちたんでちゅかぁ? ここは遊び場じゃぁありませんよう?」
昼間から飲み明かす一人のからかいは、次々と周りに広がり、
「ここは、おめぇのようなガキが来るところじゃねぇんだよ!」
「酒が甘くなるじゃねぇか」
と、罵声に変化していった。
「父ちゃんでも捜しに来たか? 誰だよガキなんか連れて来た奴は?!」
「母ちゃんの間違いだろ? まだおっぱいの欲しい歳だぜ!」
「そりゃぁいいや! なぁ、お前の母ちゃん美人か? だったら俺を紹介してくれよ。お前の好きなおっぱい出るようにしてやるからよぉ」
一斉に、どっと店中に嘲る笑いが溢れ、須臾はそれを完全に無視して早々に空いていた椅子に腰を下ろしたが、恒河沙は立ち尽くしたまま動こうとはしなかった。
「さあさあ、子供はうちに帰って母ちゃんと遊んでな」
近くにいた男が無理矢理恒河沙の肩を掴み、外に追い出そうとした瞬間、男の体は店の外に殴り飛ばされていた。
「くだらない、こせいもない、ごたくをならべるのはいーかげんにしろよ。俺は馬鹿の相手をしにきたわけじゃない!」
「なんだと! このくそガキィ!」
「おれがくそならおめぇらぜーいん」
恒河沙の真横にあったテーブルが音を立てて真っ二つに割れた。
「水ん中の石っころだな。はっ、くそにもなりゃしねぇ」
直線的な挑発。それに恒河沙は馬鹿にした笑いまで追加した。
「こぉのぉ野郎っ! 後で泣いてもゆるしゃしねぇぞ!」
「だれが、いつ、そう言った! おれが言ったのは、お前らぜーいん、石っころだっ!」
「くそガキっ!!」
今にして思えば、誰が最初に倒れたか思い出せないくらい、恒河沙の動きは早かった。少なくとも初めから傍観を決め込んでいた須臾と、カウンターにいた幕巌を初めとする店員以外の総てが、恒河沙の喧嘩に巻き込まれていた。
「あ〜あ、全く辛抱が足りない性格なんだから」
慣れた仕草で、沸き立つ人の渦を飄々と避け、須臾は自分の椅子を壁際まで移動させると、他人の酒を遠慮なく飲んでいた。勿論、大柄な男達に囲まれた恒河沙を心配するつもりもなく、時折思い出したように自分に矛先を変える者を蹴り飛ばす位しかしなかった。
裏通りと言っても、言の葉陰亭は他のどの酒場より規模は大きい。その広い店内を恒河沙は縦横無尽に動き回り、大の大人を力任せに床に這わせていった。
たとえその時、腕利きの傭兵が居なかったと理由づけても、恒河沙の戦い方は見事なモノで、幕巌が見る限り、恒河沙も須臾もその時集まっていた傭兵の誰よりも勝っていた。
須臾も三本目の誰かの酒に手を出した頃には、肩で息を切らし打撲と浅い切り傷を創りながらも、最後まで立っていたのは恒河沙だけとなった。
店中のテーブルと椅子の大半は、破壊されるか転がされているかのどちらかで、その間に呻き声を漏らしている男達がだらしなく倒れている。
「須臾……ちょっとはてつだえよ」
端から期待はしていないとも取れる言葉を吐きながら、須臾の横に椅子を起こし腰掛ける。
「僕は喧嘩なんて野蛮な行為は嫌いなの」
微笑みながら今度は須臾が立ち上がり、元はテーブルや椅子だった木の破片と男達に混じって落ちている彼等の財布を拾い、剰え気絶している男の懐からも奪い集め、カウンターで呆然と事の次第を見守っていた幕巌の前にそれらを置いた。
「どうも、うちの馬鹿がご迷惑をお掛けしました。少しばかりですが、ここの修理代にでもして下さい」
涼しい顔をして、やる事は追い剥ぎ同然の事をしてのけた須臾を、幕巌は問いつめる事も出来なかった。
鳥族特有の派手な顔の作りは、一見すると美女と見紛うばかりで、酒場女を見続けてきた幕巌でも、その微笑みには年甲斐もなく惚けてしまった。ただ、その外見に似合わない程須臾の性格はずば抜けてふてぶてしく、おまけに度胸も据わりきっていた。
ある意味では最高の第一印象である。
一方、暴れ疲れた子供の印象は、須臾よりも特別と言えた。
種族的な特徴が皆無である為に、人間であるとは判ったが、問題は子供だとか種族だとかではない。
彼の目がそうさせた。
恒河沙の右目は、眼帯代わりの布が巻かれていた。生まれつきか傷なのか、どちらにしても片目である事には変わりがなく、それは剣を持つ者としての欠陥品でしかない。その欠陥を恒河沙は天性の勘とも言えるモノと、異常な運動能力で補っていた。
たったこれだけで仕事の能力を測る事は出来ないが、確実に彼個人の強さを感じる事は出来た。
そして、幕巌が最も興味を引いたのは彼の残された左目だった。
普通誰もが持つ瞳を取り巻く白い部分。彼にはそれが無かった。厳密に言うなら、本来白であるべき場所が蒼く、瞳は紅く燃え立つように見えた。
この広い世界だ、そんな種族が居るかもしれない。しかし恒河沙の目は、人ならざるモノを感じさせるのは充分だった。
もう一つ、恒河沙について付け加えるなら、恒河沙の扱う得物である。剣身だけで彼の身長と同じ程度になるだろう大剣は、身幅も80ダラスはあるだろう。振り落とされる振動からも、見かけ倒しではない重みも感じ取られ、とても彼のような小柄な者が片手で軽々と振り回せる物には到底思えなかった。
大抵、傭兵だけではなく剣を得物とする者は、体の大きさに合った動きの邪魔にならない物を持つ。正確な一撃への動きを妨げない為にも、それは必要な事だ。見せかけに囚われず、どれだけの的を倒す事が出来るかだけを重要視する者には、古の決闘に用いられた様な、相手を萎縮させる為のはったりは必要ではない。
しかしこの恒河沙という少年は、ともすれば無鉄砲とも思わせる程の大剣を、自分の一部のように扱っていた。とてもそれを扱えるような、鍛え込まれた体の持ち主ではないにもかかわらずだ。
作品名:刻の流狼第一部 紫翠大陸編 作家名:へぐい