刻の流狼第一部 紫翠大陸編
時々彼は夜に出掛けてしまって、そんな時は眠れなかった。
その須臾が仕事とはいえ何日も居ない。どうしようかと悩んだ頭に、パッと浮かんだのがソルティーだった。何だかよく判らないし、すっごく不思議なのだが、絶対彼の所だとちゃんと眠れると感じたのである。感じたら直ぐに行動していて、気がついたら須臾と寝てる時よりも、もっと気持ちの良い朝がやって来た。
しかし最初に見たソルティーの顔が、「とても困ってる」と言ってるようで、とても本当の事が言えなかった。取り敢えず“夢遊病”と言う何かで納得してもらえているようなので、寝ている間に追い出される事にもならなかった。
きっと須臾が帰ってきたらばれるだろうが、それまではと思いながら見つめる手二残っている感触が、何だかとっても暖かく感じた。
恒河沙が部屋に運ばれてきた朝食を食べ始めた頃、ソルティーは梨杏に教えられた秘密の通り道を抜け、例の庭でハーパーの横に座っていた。
どうやらそこは、本当に秘密の場所のようで、梨杏に教えられた道以外は探す事が出来なかった。そればかりか一端そこから抜け出すと、敷地内のどの場所からも庭園は見えなくなっていた。
この庭を制作した者が、余程ここに大切な何かを感じていたのか、それとも単なるへそ曲がりか。
だがどちらにせよ、悪くない場所なのは確かだ。汚れながらも辿り着いた場所で、穏やかな表情のハーパーを見る度に思う。
彼はソルティーが此処に来た時点で、聖聚理教との関わりを断っていた。
信仰者にとっては、古よりの叡智を持つ竜族の影響力は強いが、その分嫌でも目立ってしまう。ソルティーが来てからの足掛かりとして、畏怖を与えない程度の威厳を保ち続けていたが、そんな虚栄を張るに近い態度は、ハーパーが最も嫌っている事だ。
――もしもここが何事もなく在り続けるなら、お前をここに残す事こそが……。
まるで庭園と意識を統合させているかのように、身動き一つせずに瞑想する姿に、ついそんな気持ちがわき上がる。
言えばまた彼を怒らせてしまうだろう。そして何度も聞いてきた言葉を言い、自らもまた悲しむのだ。
ソルティーは真実の望みから遠く離れた苦悩を、心の中で振り払うと、彼の主としての言葉を放った。
『頼んでいた事は調べられたか?』
『うむ。我には感じられなかった』
ハーパーはまるで今までも話し続けていたように、素早い返事を繰り出した。
『そうか。なら、少し変更しなければならないな』
考え込むように口元を片手で覆い、言葉を無くす。
鈴薺に宝玉を見せて貰った二日後に、ソルティーはハーパーにある物の探査を頼んだ。その結果如何によっては、これからの盗賊退治へ臨む姿勢がかなり変化するはずだった。
ハーパーの答えはそれを裏付けてくれる話で、予め考えていた幾つかの“次の手”から一つを浮かべていると、ハーパーは更に話を続けた。
『だが主、他にも些か腑に落ちぬ場所も在ったのだが』
『話てくれ』
『神殿に安置されるオレアディス像だ。呪紋、それも隠滅の形跡が色濃くある。人では余程の術師の目を用いてやっとであろう、微細な気配ではあるが』
『……そうか、いや、助かった。私では到底無理だからな』
『否、今の我にはこれ程の助力しか及ばぬ』
『ありがとう』
そう言ってからソルティーはハーパーの腕にもたれかかる。
結果を出すまでにもう少し時間が掛かると思ったが、やはり竜族に掛かれば人の力など稚気に等しい。
これなら恒河沙を連れてきても大丈夫だったとは思うが、そうしていればこうしてゆっくりとは出来ないだろう。
『此処でこうしていると、昔に帰ったようだ』
微かに感じる花の香りを感じながら瞼を閉じると、昔に見た光景を思い出す。
色とりどりの花々、緑冴え渡る草原、人々の笑い声。それはどれも美しい光景だった。恒久の楽園を約束されていた自分の故郷は、今でも記憶の中では輝いていた。
『戻りたいと願うか?』
その言葉にソルティーは何も言わなかった。
過去は過去。
過ぎ去った日々を取り戻す事が不可能なのは、誰にでも理解できる。今はただ前に進むしかないとソルティーは考え、ハーパーはそれに従う者だ。
蒼陽が昇り始める夕食後、ソルティー達は久しぶりに身に着けた武具を入念に点検し終えた後、端雅梛に導かれるまま何時もとは別の人通りのない道を通って神殿へ向かった。
神殿では鈴薺が梨杏と苑爲を連れて二人を待っていたが、その姿に驚いたのは端雅梛だった。
「どうして苑爲が此処に居るのですか!」
端雅梛は未だに傭兵を使う事に反対しているのことあって、かなり苛立った声で思わず鈴薺に詰め寄った。
確かに司祭でも端雅梛位しか事を知らされていないと言うのに、神官見習いの苑爲が居る事は不自然だった。だが端雅梛が見習いの立場を咎めているのではない事は、端で見ている二人さえもありありとしていた。
そして部下の叱責も飄々と受け止める鈴薺には、聞き入れてやる気持ちが全く無い事もハッキリしていた。
「用心の為じゃ。お主一人を行かせる訳にもいかぬでな」
「しかしっ、こればかりは大司祭様のご命令であっても、私は反対です」
「相変わらず堅苦しい奴じゃ」
「ッ! お言葉ですが大司祭様は、……苑爲」
何を言われようと断固反対し続けるつもりの端雅梛の前に、真剣な表情の苑爲が割り込むように立った。
「端雅梛様お願いです、決して邪魔は致しませんから、私も連れていって下さい」
「駄目だ。何が起きるか判らないのだぞ」
「それは元より覚悟して」
「そんな事を言ってるんじゃない! ……お前に何かあったら、私は……」
「端雅梛様……」
心配するが故に苦しむ声を出す彼に、苑爲は驚きながらも頬を染める。
その様子をただ見ているしかない二人は、一人は退屈そうに、一人は妙な所で納得していた。
――なるほど、だから須臾が妙にあの子にだけ親切だった訳だ。流石と言うか、何というか……。
やっと苑爲が女性だと気付いて、妙な感心にソルティーが包まれていても、端雅梛の説得は続いていて、だがそれも苑爲の最後の言葉に幕を下ろそうとしていた。
「もし何かが起きれば、いえ、起きた時こそ私が役に立ちます。端雅梛が私を心配してくれるのは嬉しい。けれど私も貴方が心配なんです。お願い、端雅梛」
「苑爲……」
「決まったな。ソルティー殿、下へは梨杏様が導きますが、この端雅梛と苑爲もお連れくださらんか」
納得しかねる様子の端雅梛を無視し、鈴薺はソルティーの頷くのを見てから梨杏と共に祭壇の台座に向かう。
「なんだよ、じじいは高見の見物か?」
「恒河沙」
「は〜い」
黙れと視線を送られると、思ったよりも素直に恒河沙は従った。
梨杏を先頭に、端雅梛、苑爲、ソルティーと続き、恒河沙が殿を受け持った。
流石に恐がりが露呈した恒河沙も、闇の恐怖よりも仕事への興奮が先立っているようで、ソルティーに引っ付いてくる事はなかった。
しかし、廊下を進みながら問題が無かった訳ではない。
先程のやり取りの苛立ちを、鈴薺の不在を良い事に端雅梛が恒河沙にぶつけだしたのだ。
作品名:刻の流狼第一部 紫翠大陸編 作家名:へぐい