刻の流狼第一部 紫翠大陸編
真っ直ぐに藩茄螺を見据える眼差しには、殺意や憎しみには感じない別の力が宿っている。
その眼差しを逃げずに受け止める藩茄螺だったが、先ほどよりも微かに真剣さを増した表情となった。おそらくそれは、民ならば誰もが抱いている思いに、触れられたからだろう。
「我が国には王は居ない。その代わりに、民衆が我等傭兵団にとっての王だ。奔霞が戦の累に及ばぬと申されたが、戦が始まれば我が傭兵団は何れかの国に引き込まれ、最悪この身勝手な戦の巻き添えは民に返る。我等はそれを避けたいだけだ。この国の民衆も、我等には掛け替えのない王だ、それを我等は守りたいだけだ」
「……それが奔霞の望みか」
「王が争えば、民衆も争わなければならなくなります。だからこそ、襄還宗は敦孔伐と手を切り、襄還宗だけで聖聚理教と戦わなくてはならない」
「そうか……」
藩茄螺が書簡を開け、中の証書を広げ見る。
内容は、奔霞傭兵団の契約書。
「奔霞は国として動きません。傭兵団総てを貴方個人がお雇いください。そうなれば、我等の力で、戦後の敦孔伐の動きも封じて見せましょう」
「もし、断れば?」
「敦孔伐と手を結び、襄還宗もろとも擣巓を討ち滅ぼし、そして、神の御手も及ばぬ戦が続くでしょう。それをお望みか?」
嘘のない須臾の言葉に藩茄螺は首を振った。
藩茄螺が望む事は、聖聚理教の壊滅だけだ。それだけを胸に今まで生きてきたのだ、須臾の語る王の死や民衆の事まで考えてはいない。
「判った。奔霞の傭兵団、私が預かる」
「その言葉、襄還宗の意思として奔霞に伝えます」
深々と頭を下げ、須臾は立ち上がる。
これで、幕巌は賭を勝利した事になるだろう。しかし、戦はまだ始まっていない。これから先は、敦孔伐が奔霞をどうするかの問題となってくるのだろうが、それを考えるのは須臾ではない。
仕事が終わり、ほっとした表情で須臾は神殿を後にした。
帰る迄の道のりの危険より、まずは過大評価通りの働きが出来た事に、安堵していたのだ。しかしその反面、この評価が今まで細心の注意を払って築いてきた、気楽さを脅かす事に繋がるのではないかと危惧もあったが。
須臾が帰った後、藩茄螺は自室に戻り一人壁に掛けられた大きな絵を見ていた。煌びやかな額縁の中に微笑む女性は、鈴薺の部屋で微笑んでいた女性だった。
「南美芭、漸く此処まで来た。もう少しだ、君の仇を討つことが出来る。もう少しで君の居る場所に行ってあげられる、だからもう暫く待っていてくれ」
鈴薺に向けられた微笑みとは違う、自分だけに向けられた優しい儚げな笑みを撫でる。
出会ったのは偶然だった。
当時の大司教に連れられ向かった聖聚理教の神殿で、悲しみに捕らわれた南美芭と視線が合った瞬間、藩茄螺は身も心も奪われた。
たった数回の逢瀬だったが、それだけで充分な程自分達は愛し合えたのに、たかが戒律で自分の大切な人は命を失った。
その時から藩茄螺の復讐は始まり、漸くそれを果たす事が出来る。
だがこれは、私怨のみの復讐ではない。
もしも聖聚理教を許してしまえば、この先も自分や彼女と同じ悲しみを背負う者が、必ずしや出てきてしまうだろう。こんな苦しみは、もう自分達だけで充分なのだ。
だからこそ藩茄螺は、決して退かないと誓った。
声もなく、もう二度と見せては貰えぬ微笑みを前に、涙を零しながら。
須臾が急いで街道を南下している間に、炎鎖の月は翌日となった。
前日から神殿への立ち入りは一般信者を含め全員が禁止とされたが、その理由は誰にも知らされてはいない。この事を知る者は、鈴薺と司祭に絞られ、その日までソルティー達も動きを押さえていた。
但し、問題が無かった訳ではない。
何時も通り夜が明ける頃自然と目を覚まし、覚醒の余韻を体で感じるソルティーの横に、小さな寝息が聞こえる。それに目をやり、此処毎日の習慣通り溜息をもらす。
狭くは無いが、人が二人も寝れば窮屈に感じるベッドに、ソルティーは何故か恒河沙と寝ていた。
須臾が発つ前に漏らした「今晩から大変」が、まさかこんな事とは思いもよらない。
あの日、夜になって眠ろうと灯りを消した時に、何の前触れもなく現れた恒河沙は自分用の枕を抱えての訪問だった。
「ねむいっ!」
その一言だけを言い、勝手にソルティーが横になっているベッドに入り込み、一瞬で眠りに就いてしまった。
暫く何も考えられない状態で無防備な顔を眺めていたが、兎に角起こそうと何度か揺り動かした。が、恒河沙が目を覚ます事はなかった。仕方なく、自分がそこから退こうとベッドから抜け出そうとすると、腕を掴まれているのに気付いた。
『……これは何かの間違いだ』
結局ソルティーは一睡も出来ず、朝になって恒河沙が起きるまで、その場に固定されていた。
翌朝、大きな欠伸と共に目を覚ました恒河沙を問い詰めたが、逆にどうして此処に自分が居るのかと聞かれるだけで、何の解決にもならなかった。
「夢遊病の癖が在るとか須臾に言われた事はないか?」
「なにそれ?」
「……もう良い」
多分恒河沙に説明しても明確な答えを貰える事はないと、早々に話を切り上げたが、その日の夜も、また次の夜も、恒河沙は同じ事を繰り返し、ソルティーを困らせ続けた。
一度だけ腕を掴んだ手が放れたとき、逃げるように抜け出して床で眠ったのだが、翌朝には自分の横に恒河沙が居る事に気が付き、ソルティーは逃げる事を諦めた。
恒河沙の手が許す範囲で体を起こし、窓から差し込む光が明るくなるのを、ただの一言もなく待った。自分が動けば恒河沙が目を覚ますからだが、どうして此処まで自分がしているのか理解できない。
「ん〜〜〜」
夜が明けきるのを待っていたかのように、何時もと同じ位置に朱陽が来ると、恒河沙が目を覚ます。
心地よい目覚めだったが、また自分がソルティーのベッドに居ることに気付き、表情が困惑気味に歪められた。
「おはよう」
「……おはよ…ござい…ます」
情けない顔で答えると、二度ほど頭を軽く叩かれた。
「今夜から神殿で寝ずの番だから、もう少し寝ていた方が良い」
漸く離れた手を確認し、ソルティーはベッドから出る。
「食事は此処に運んで貰うようにするから」
「ソルティーは?」
「食事が済んだらハーパーと話がある」
「俺も行っちゃだめ?」
「駄目だ。お前は少しでも体力を使うな。運が悪ければ二晩眠れないからな」
そう言うとソルティーはさっさと部屋を出ていった。
諭されるまま一度はベッドに横になったが、完全に目が覚めていたし、ソルティーが居なければ眠れる筈もなかった。
ソルティーの感触が残っている右手を、顔の前で何度か開いては閉じるを繰り返し、また迷惑を掛けてしまったと思う。
本当はこの部屋に来ているのは、ハッキリと覚えている。と言うか、自分の意志なのだ。ただ理由を話す勇気が無くて、ついつい嘘を吐いてしまった。
――横にだれかいないとねれねぇなんて、言えるかよ……。
記憶の一番最初の日の夜、知らない家の中で知らない人が心配そうにやって来て、何だか判らないが凄く不安になっていた。そんな時に須臾が一緒に寝てくれて、これも何だか判らないが、凄く安心して眠れた。
作品名:刻の流狼第一部 紫翠大陸編 作家名:へぐい