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刻の流狼第一部 紫翠大陸編

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 頭上からの声に男は空を仰いだが、その時には須臾の体は彼の前にいた。
「なっ!」
 それが男の最後の言葉だったが、男は仲間に殺された。須臾に向けられた氷の礫は男の額を貫いていたのだ。
「仲間なのにねぇ。可哀想に」
「お……お前も術者なのか……」
 笑みを絶やさず、自分に近寄る須臾を男は驚愕の眼差しで見つめる。
 その男の視界の中で、須臾は忽然と姿を消した。
 自分達の術を完全に見破れる等、簡単に出来る事ではないと自負していただけに、その事実はまるで化け物を相手にするかのような恐怖を感じさせた。
「自分達が出来るから、術者だと決めつけるのはいけないよ。そんな物に頼らなくても、人は気配を消せるし、人も殺せるんだよ。ほら、こんな風にね」
 男の耳にハッキリと声だけが聞こえる。
 驚愕の中で慌てて周囲を見渡しても、何処にも姿を見つけられない。
「目で見える事にばかり頼るから、こんな速度にもついていけない。物を見る事が出来なくなる。生まれ変われたら、そう言うことをまず教えて貰おうね」
 男の背に誰かの手が触れ、ドンッと激しい感覚が、頭の先からつま先までを一瞬に駆け抜けた。
「ったく、これだから術者は嫌いなんだ。ひ弱だから、なぶり殺しも出来やしない」
 たった少しの気をぶつけただけで死んでしまった者に、須臾は侮蔑の言葉を投げ捨て、元の道へ戻る。
「お疲れさま、助かったよ」
 空を飛び続ける小鳥に声を掛け、須臾はマントを付け直すと何もなかったように歩き出した。
 小鳥の目を借り、上空から大気の歪みを捜し出す。須臾の向きに併せて作られたまやかしは、他方向からの視線があれば容易に見破れる。
 死んだ四人には悪いが、須臾にしてみれば彼等の事は食後の運動にもならない、つまらないモノだった。



 須臾が襄還宗の神殿に辿り着いた時、まず始めに感じた事は、神殿中の空気の緊張感だった。
 先日の訪問時よりも遙かに厳しい視線から、先程の様子を総て見られていたと察しがつく。
 彼等が襄還宗の者で在ろうと、敦孔伐の者であろうと関係はない。術者をいとも容易く殺せる者が存在する。その恐怖を植え付ける事こそが、須臾が面倒でも術者達を相手にした理由だった。
 少なくともこの恐怖が続く限り、彼等が簡単に自分を襲う事はなく、この恐怖は奔霞に対する恐怖ともなるのだから。
「大司教殿はお帰りになられていますか?」
「……は、はい」
「では、取り急ぎお取り次ぎ戴こうか」
 神殿入り口での交渉は少し待たされたが、意外とすんなりと進んだ。
 緊張する神官に連れられ、須臾が案内されたのは礼拝堂だった。華美な装飾が施されたそこは、聖聚理教の神殿とは正反対の美しさが在った。
 そこには一般の信者の姿はなく、多数の僧兵と他国の色を見せる服装に身を包んだ数人の男達、そして、祭壇の前には目つきの鋭い狗族の男が須臾を見下ろしていた。
 歳は三十代くらいだろうか、周りの神官とは違う装飾に彩られた服を身に纏い、年齢とは懸け離れた威厳を漂わす。
「奔霞が頭首、幕巌様のお伝えに参りました。名は須臾と申します」
 須臾は礼拝堂の中央まで来ると片膝をつき、頭を下げた。その上で、丸腰であるのを見せつけるように、マントを床に置き、両手を掌を上にして前に差し出す。
「奔霞の言葉、何を伝える?」
「その前にお人払いを」
「それには及ばぬ。彼等は私の忠臣だ」
 初めから予想できた言葉に、須臾は食らいつく。
「それではこの話、無かった事として奔霞に伝えましょう」
 この話に少しの邪魔も許されない。せめて敦孔伐の者をだけでも。
「そうなればどうなると言うのだ?」
「ご想像になられるのが宜しいかと」
 そう言いきり、須臾はゆっくりと立ち上がる。その表情に、冷酷な笑みが浮かべられていた。
「判った。総ての者の退出を命じる」
 藩茄螺の言葉に僧兵は出入り口に向かい、敦孔伐の者は揃って驚愕の表情を並べた。
「貴様何を考えているっ!!」
 敦孔伐側の言い方は、まるで裏切り者を糾弾するかのようだった。それを耳にする須臾は、「やはり」と浮かべていた。
 敦孔伐は未だに襄還宗との、決定的な繋がりを確立してはいないのだ。
「お客人、此処は我等の神殿だぞ。何を考えるも何も、それを考えるのは私だ。しばしの間、此処への立ち入りは禁じさせて貰おう」
「貴様っ、我等の恩を仇となす気かっ!」
 いきり立つ者達の言葉を無視し、藩茄螺は僧兵を使って彼等を礼拝堂から連れだした。
「これで邪魔は消えた。さあ、奔霞の言葉伝えて貰おうか」
「承知いたしました」
 もう一度膝をつき、須臾は書簡を前に置く。
「奔霞の言葉は、襄還宗が敦孔伐と手を切り、奔霞と条約を結ぶ事のみ」
「ほう、奔霞がな」
 その言葉には笑いが含まれ、聞かされた言葉を信じてはいなかった。
 それでも、書簡を受け取りに来る藩茄螺に、須臾は一応安心した。
「奔霞の頭首と鈴薺は、殊の外懇意だと聞き及んでいたが?」
「当人同士ではそうですが、国を交えてのモノではありません。奔霞にとって聖聚理教は、何の益にもならない」
 頭を下げたまま、藩茄螺の足だけを視界に入れ須臾は言い切る。
「奔霞が私と手を結んでの利益とは何か? 敦孔伐は擣巓の国土を要求した。奔霞もそれを望むか?」
「奔霞は一切の国益を望んではおりません。奔霞の望みはただ一つ、戦の早期終結」
「早期終結? ……はっ!」
 たったそれだけかと、藩茄螺は笑い飛ばす。
 藩茄螺が敦孔伐と交わした約束は、兵と武器の調達の代わりに擣巓の国土の三分の二を渡すこと。その後、襄還宗の進出を約束したのだ。
 勿論彼も、敦孔伐の甘言だけを鵜呑みにはしていない。聖聚理教を滅ぼした後を考え、だからこそ敦孔伐との話を焦らすだけ焦らしていた。
「この戦がそれ程長続きするとも思わぬが……」
「国力を考慮すれば長く尾を引くと、こちらは結論を出しました。この戦に敦孔伐のみが動くと考える方が間違いでしょう。唐轍、璃潤、駕菱(がりょう)との戦まで、敦孔伐が勝てるとお思いか」
 須臾の人生の中で、これ程の緊張を感じた事はない。
 気を抜けば汗が噴き出し、喉が渇ききってしまいそうだ。
 無表情に近い顔で、一字一句聞き逃さぬように、指先や瞼の震えを見逃さぬようにされれば、一言の言い間違いも許されはしない。
 さりとて須臾は、一瞬も焦りを表に出さずに語り続ける。自分の背中に立ち、自分を支えてくれる幕巌を、心の中で感じながら。
「そうなれば国同士の戦となり、この国はおろか、周辺諸国も巻き込んでの大きな戦となりましょう。もし仮に擣巓内での戦で終わらせられたとしても、同じ事。敦孔伐もそれ程馬鹿ではない。この戦が終結し、襄還宗が勝利を収めても、聖聚理教という大きな民衆信仰を滅ぼした罪を貴方達に被せ、擣巓と言う利益総てを手中に収める。それを見過ごす国は周りに存在しない。この北部全域の地図は、何年も掛けて塗り替えられる先が、貴方には見えませんか」
「それが事実だとしても、奔霞の思惑がいまいち解せぬ。離れた国である奔霞にそれ程この戦が累を及ぼすとは考えられぬ」
「王が他国の者に滅ばされても良いのか!」
 須臾は自分でも驚くほどの声を張り上げながら顔を上げた。