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刻の流狼第一部 紫翠大陸編

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「早いな、少し前までは、まだよちよち歩きの子供だったのに。人間の時が過ぎるのは早いな」
 産まれたばかりの苑爲を、端雅梛は抱いてあやした事もある。
 自分の姿はあの頃と殆ど変わる事はないのに、人間の苑爲は今にもそれを追い越しそうで、嬉しい反面取り残される気がしてならない。
「わ、私は、何時までも端雅梛と居ます。端雅梛は迷惑かも知れませんが、あの時の約束を私は忘れません」
「迷惑と思ったことは一度もない」
 立ち止まり、苑爲を真っ直ぐに見つめる表情は、他の誰にも見せない優しい眼差しを浮かべていた。
「迷惑ではない、しかし、限界だ。大司祭様とも話をしたが、何時までも隠し通す事は不可能だ。体の線が丸みを帯び、声だって男のモノではない。ずっと少年のままでは居られないんだよ」
 端雅梛にしてみれば、苑爲を心配するからこそ厳しい口調で語ったのだ。しかし言われた方は、目を背けたい現実を最も言われたくない者から突き付けられ、瞬きを忘れ涙を流した。
 その静かな悲しみに、端雅梛は胸を掻きむしられる程の苦しさを覚える。誰も居ない密室なら、抱きしめて慰めてやりたい。
 なのに立場が、信仰が、彼の心を抑え込んでしまう。
「必ず誰かが気付く、その前に……」
「嫌です! 私は、端雅梛の側から離れたくない! 貴方とお爺様が私を心配してくれて居るのは判ってます。でも、私は貴方と離れたくない。端雅梛の気持ちは判ってます、でも、私の気持ちもあの頃となにも変わってない。だから、お願いだから、少しでも長く側に居させて!」
 大粒の涙を流し、端雅梛に懇願する顔には女性の美しさが見える。
 入信した当初はそれでも良かった。母親に似た中性的な子供だと思わせるには簡単だった。しかし、年を追う毎に苑爲の体は他の者とは違いを見せ、声変わりも無い。
 僧服で隠し、声を低く出し、今までは隠してきたが、女性としての雰囲気を打ち消す事は年々難しくなっていたのだ。
「これは私の我が儘です。気付かれた時は、私一人が罰を背負えば済むことです。だからお願……っ!」
「ッ……」
 端雅梛は苑爲の言葉に無意識に手が動き、彼女の頬を叩いていた。熱い感触の残る自分の手を、信じられない面持ちで見つめた。 
「……申し訳御座いません、お客様にこれをお届けしないと。……失礼します!」
 紙袋を強く抱き、苑爲は逃げるように神殿への道を走りだし、その後ろ姿を追う事もなく、端雅梛はその場に立ち尽くす。
「罪を……一人で背負う事など、出来る筈が無いだろう」
 苑爲の頬を打ち据えた手を握り、苦しい独白を口にした。
 もしも、自分の立場が苑爲と変わらないモノなら、これ程苦しむ事ではなかった。
 俗世に嫌気が差して聖聚理教に入信した時から、ただひたすら教義にのめり込み続けた。そして漸く司祭になったのは、苑爲が生まれた年だった。今更簡単に捨て去れる事ではない。
 何より端雅梛と苑爲では生きる時間が違いすぎた。
 死ぬまでの短い時を駆け抜ける人間と、長命故に死という概念が希薄な亜人種では、時間の感じ方も意味も違いすぎる。
 子供の頃から自分に向けられてきた苑爲の激しい恋愛感情を知りつつも、どうする事も出来ずに持て余し続けた。





「さってと、行きますか」
 誰に言うでもなく、村の入り口に建てられた門を潜りながら、須臾は声を張り上げる。
 昨日までまとわりついていた視線は無く、不審な人影も消え去っていた。予想していた通りの出来事に笑みは濃くなり、足取りも軽く神殿への道を歩きだした。

 神殿までの道のりは、極めて単調で静かな風景が続く。辺りに身を隠す木々もなく、なだらかな斜面の先に小さな神殿が見え、周り一面は草原で覆われていた。
 その、長閑な道を一人呑気に歩いていた須臾が、急に上体を後ろに反らす。
 目の前を高速ですり抜けた何かは、その勢いに任せて地面に突き刺さり消えた。
――やる気満々だね。
 辺りに人影は無い。
 痕跡を残さない仕掛けを、わざわざ自分の為に用意してくれた事に喜び、囀りのような口笛を奏でた。
「おいで、僕の友達」
 須臾の指が頭上に掲げられ、付近を飛んでいた一羽の小鳥が降り立ち、その小鳥にそっと語りかける。
「暫く目を借りるよ」
 その言葉を合図に小鳥は大空に飛び立ち、須臾は纏っていたマントを肩から外した。
「さあ、お前達の目当ての物は此処だ。欲しければ、力尽くで奪ってごらんよ」
 背負っていた鞄を指さしながらの挑発に答える声はなく、代わりに先刻と同じ大気の矢が放たれ、それを紙一重で避ける。
 須臾は何処までも無駄な体力の消費を嫌っているのか、それが放たれた場所に向かおうともしない。
――手慣れてる。でも、暗殺者ではなさそうだな。
 相手が術者であるかどうかによって、戦い方はかなり違い、術者が相手だと判っていても、その使用する魔法の属性で大きく変化する。
 見渡す限り人影は存在しなくとも、どこかに潜んでいるのは確実で、矢が飛んできた方向に迂闊に近寄れば、別の場所から攻撃されるだろう。
――やだねぇ、隠れるしか能の無い奴はこれだから。
 大気が微かに揺れ、須臾の後ろに炎が現れる。
「芸が無い!」
 嘲笑と共にその炎は、須臾のマントに叩き落とされた。
 須臾の手にしていたマントに炎が触れた瞬間、そこに呪紋が浮かび、そして消えた。防御呪紋の施された物で、須臾が身に纏っている衣服総てにそれが施されている。
――これで三人確認。
「人一人殺すのに、炎とか使うの個性無いよ、君達」
 この挑発に乗ったのか、一気に攻撃の数は増え、須臾はそれを待っていた。
 一定しない場所からの矢と炎を避け、須臾は一息でその場に駆け抜け、何もない空中に片手を突き出す。
「僕ね、術者って大嫌いなんだ」
 微笑み、掌の先に姿を現した男に囁く。
「だからね、死んで良いよ君達」
 だらしなく口を開け涎を垂らしながら、崩れ落ちる男の命は消えていた。
 直接脳に送られた振動は、男の脳細胞をずたずたに切断したのだ。
「隠れても、無駄だからね」
 仲間の死に動揺してか、須臾に向けられる攻撃は一瞬途絶えたが、微笑んだまま振り返る須臾の視線が自分の向けられたのを知り、一人が怯えた。
「くっ、来るなっ!」
 声だけが周りに響き、渦巻く炎が空中に発生し、それは須臾にめがけて飛びかかり、須臾はそれを避けなかった。
「や、やったのか……ひっ!」
 男の歓喜は先に続かず、視界すら塞がれた。
 こめかみに指が食い込み、激痛が男を襲う。炎が燃やしたのは男の仲間の体だけだったが、それを知る前に男の意識はなくなった。
「後は、隠れるだけしか脳のない連中か。姿を見せて、攻撃しても構わないよ」
 一度に複数の術を使えれば、それはそれで面白いと須臾は付け加えたが、返事は無かった。
「そう、退屈な奴等だ」
 ゆっくり一人に向かいながら、少しだけ汚れたマントを叩く。
「……くそっ!」
 誰の物かも知れない声が小さく舌打ちされ、須臾の視界に男が二人離れて姿を見せた。指が何かを描く、聞き取れない呪文が流れる。そして何もない空中に呪紋が浮かび、須臾の周りに風が吹き荒れ、一気にそれが凝縮した。
「潰されろっ!!」
「ばーか」