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刻の流狼第一部 紫翠大陸編

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 初めて恒河沙自身の事を彼自身が話てくれた事へ敬意を込めて、彼の我が儘を聞き入れた。こんな事が須臾に知れると、また甘やかすなと言われるか、笑い飛ばされるかのどちらかは予想できる。
 それでも少しは自分に気を許してくれた事の方が、ソルティーには重要な事に思えた。


 鈴薺が解呪した扉の数は五つにもなる。その扉を潜り、三人は漸く目的の部屋に辿り着いた。
 部屋の中には室内灯は無く、明かりは鈴薺の持つカンテラ一つだったが、その部屋は神々しい光に満ち、ともすれば上にある神殿よりも美しい造りをしていた。
「これが、そうなのか?」
 部屋の奥中央に置かれた光の発生元は、細長い台座の上に在り、形は見ようによっては女性の人影にも見え、人の顔ほどの大きさだった。
「イスプリートラルム、精霊の涙をこう言いましたな。恐らく、姿形、含まれる理の力、どれを取ってもこれ以上の宝玉は、僞擣全域を捜しても在りますまい」
 誇らしげに語る鈴薺を横目に、ソルティーは何度か簡単に宝玉を眺めただけで、感心を示さなかった。
 代わりに、恒河沙がその分はしゃぎ回っていたが。
「恒河沙、勝手に御神体に触れるな。――鈴薺、一つ聞いて良いか? 廊下の仕掛けはどうなっている? それと、扉の方も」
 幾らなんでも、御神体を安置している割に単調すぎる道のりに、ソルティーは疑問を提出した。
「私を含む大司祭二人と先代の大司祭、そして神子だけが扉を開けられる仕掛けじゃ。廊下も、誰か契約者が居らん限りは、迷路に見えるじゃろうて」
「その中に裏切る者は居るとは考えないか」
「疑う位なら、初めから頼みはせんよ。よしんば裏切る者が居ったとしても、此処で方を付ければ、誰に知られるで無し」
 言い換えれば、裏切り者は殺してくれなのだろう。
 とても大司祭とは思えない言葉ではあるが、だからこそとも言える。
「そうか、そう言う考えならば、俺にはもう何も言えないな」
「ソルティーっ! きてきて」
 恒河沙が宝玉の前で手招きする。
 鈴薺との話は片が付いたと見て、ソルティーは楽しげな恒河沙の元へと歩み寄り、横に並んで彼の指さす宝玉を眺めた。
「なぁ、このゆらゆらしてるのなに?」
 不思議そうに恒河沙が指さしているのは、宝玉の周りを囲む大気の歪みだった。
 熱をはらんだ大地から昇る陽炎の様に、向こうの景色が歪む様を初めて見て、好奇心でうずうずしている。
「これは、理の力が強すぎて、周りの空気にまで影響している所為だ。理の力の周りを押す力と、空気の戻す力が反発しあって大気の屈折率って言っても無理か。……ああ、恒河沙、水の中に手を入れると、なんか普通と違うだろ? あれだよ。間に透明だけど別のモノが入ると、少し違って見える感じだな。原理は聞かない方が良い、お前には難しすぎる」
 可能な限り簡単に説明しているつもりでも、恒河沙の顔を見れば理解できているかどうかは判る。ソルティーは途中で断念して適当に近い話に切り替えたが、恒河沙は自分が半分馬鹿にされたのも気付かず、自分用の説明に「すげぇすげぇ」と何度も深く頷くだけだ。
 勿論ソルティーの適当で簡単な説明でさえも理解できなかったが、取り敢えず今自分が見ているモノが、自分の目が悪くなったからではないと知って安心する、その程度だ。
 その二人の姿を見つめる鈴薺が、多少の不安を恒河沙に覚えたのは仕方ないだろう。



 一方その頃、早朝に庭先から飛ばされた須臾が、予定通り襄還宗の神殿のある場所から一つ手前の、村の入り口付近に姿を現した。
 神殿と今の場所までの移動時間は、須臾の体感時間では瞬き一つ位しかないが、実際は半日のずれが生じていた。
 その時間の差が短くなる程、魔法は高度となり、失敗は多くなる。
「さて、これからどうするかな……」
 村の灯りと、襄還宗の神殿に続く暗い道を見比べ、須臾は簡単に村へ体を向けた。
 どうせ歓迎される筈のない身である。しかも嫌々気分の仕事だ。それならばまずは自分が楽しんでからでも構わないだろうと、酒が飲めてお近付きになれそうな綺麗なお姉さんの居る場所を捜し始めのだった。

 しかし、翌日も須臾は夜になると酒場に現れた。
 自分の役割を放棄したのではなく、此処に来て誤算が産まれたのだ。
 前日の酒も引きずらず、朝から襄還宗の神殿に足を運んだのだが、目的の藩茄螺が不在だったのである。
 国境周辺の視察だと言われたが、敦孔伐との何らかの話をしに行ったのは、まず多分間違いではないだろう。藩茄螺が帰るまで神殿に逗留しても構わないと薦められたが、僧兵に囲まれて脅かされるよりは、同等の危険ならば村に居る方が敵は少ない。
 襄還宗からの刺客よりも、敦孔伐の方が須臾を消す恐れは考えられた。実際、今日一日で穏和な村人とは懸け離れた人物が、数人視界に入ったのだ。
――仕掛けるなら早くして欲しいね。
 時期も立場も考えれば、到底こちらから仕掛ける事は不可能。
 駆け引きに費やす時間は無いとは思いつつも、わざと人通りの多い場所を選んで行動して見せ、向こうの出方を窺うしかなかった。
――恒河沙を連れてこなくて本当に良かった。
 こんな状況を彼が耐えられる筈はない。置いてきた火種は気にはなるが、やはり自分の判断は正解だったと思う。
 藩茄螺が戻るまで三日間。明々後日もう一度足を神殿に運ぶその時が、自分を取り囲む者達の絶好の機会であるのは間違いないだろう。
 その時までは、下手な見え透いた手に乗るわけにはいかなかった。





 天駕縊の大通りを、両手に食べ物の詰まった紙袋を抱える少年を、端雅梛が見付けたのは、昼を少し過ぎた辺りだ。
「苑爲、どうしてこんな場所に」
 後ろから急に呼び止められ、驚いた表情で苑爲は端雅梛に振り返った。
「端雅梛様こそ、此処へはどうして」
「私は組合へ通達があったので仕方なくだ」
 不浄を嫌う端雅梛らしく、その言葉には険が込められている。
 教えの意義や崇高さは従う価値が在るとは思っているが、端雅梛は専ら神殿での業務だけに尊さを見ている。他の神官同様に、街に出て人々と触れ合う事を毛嫌いしていた。
「私の事より、質問に答えてくれないか?」
「ええ、買い出しです。神殿での食事は、矢張りお客様には合わないらしく、街にお出かけになる事は避けて戴いたので、こうして私が代わりに」
「あの者達を客とは思うな。野蛮で教養も持たない者に、何故お前が使われなくてはならない」
 通りから少し脇に逸れ、人通りの少ない裏道に入ると、端雅梛の口調は苛立ちに変わった。
「端雅梛様が考えていらっしゃる程、あの方達は野蛮では無いと思います。それに、この買い出しの件にしても、ちゃんとお金を戴いています。私に頼むのも気が咎めるからと、お寄付も戴きました。ですからこれは、私の大切なお勤めです」
「苑爲」
 楯突くのではなく、しっかりとした自分の考えを持って話ている苑爲を、端雅梛は呆然とした気持ちで見た。
「もう、十六か?」
「もう十七です。端雅梛様は酷いです、私の歳を忘れるなんて」
「済まない。……二人きりの時は名前だけで構わない。他人行儀は辞めてくれないか」
「は…はい」
 赤みの差した頬を隠すように苑爲は俯く。