刻の流狼第一部 紫翠大陸編
「解雇?」
小さく頷き、また目を擦る。
「も……わがまま言わないから、お腹すいてもがまんするから、俺、須臾とべつに仕事するから、かいこしないで、ください」
「そう言う事が我が儘だと思わないのか?」
「……えっ?」
ソルティーの言葉に驚いて顔を上げた瞬間、堪えていた涙が流れた。
「最初にこの仕事を、須臾と離れて仕事をしたくないと考えたのはお前だろう? それを解雇されるかも知れないからと、そんな考えでここに来て、仕事を引き受けると言うのは、我が儘ではないのかと聞いているんだ」
無意識に恒河沙の涙から視線を逸らしそうになる。必死にそれを抑え込み、語る言葉には冷徹さを含ませた。
「それに、今回は出来ても、これからも出来るとは限らない。俺は二度とお前達を信用できない状態で、仕事を頼まなくてはならなくなった。それがどういう意味か判るな?」
流れる涙を拭えず、恒河沙はソルティーの言葉に頷いた。
信用しないと言われたのだ、もう自分は彼の信頼を得られなくなったと思うと、締め付けられる様に胸が苦しくなる。唇を噛み締め、考えても考えても頭の中は真っ白になるばかりで、涙が止まらない。
そんな恒河沙の姿を見つめ、それから声音を変えてからソルティーは話を再開する。
「判ったなら良い。仕事は元に戻す。俺と恒河沙で御神体の警護、須臾は別行動、解雇はまだしない」
至って事務的な言葉を並べ、自分の中にある不可解な感情は表に出さないように努めた。
「ソルティ……?」
目を大きく開いてソルティーを凝視する。
「かいこ、じゃないの?」
「して欲しいのか?」
笑みを見せての言葉に恒河沙は力一杯に頭を振った。
「なら、座って話をしろ、前に立たれるのは好きじゃない」
椅子を指さすソルティーに半分従って、彼の横に腰を下ろす。
――どうして横に座るんだ……。
不可思議な面持ちで恒河沙を見下ろすと、嬉しそうな笑顔を返されるだけで、聞くか聞くまいかを迷った末何も聞けなくなった。
恒河沙が何かを考えて行動しているとは到底考えられないから。
「へへ……」
「もう一つ、俺の前で二度と泣くな。男が簡単に涙を見せるな」
「うん」
濡れた頬を力任せに袖で拭き、擦れて赤くなった顔をソルティーに向ける。
「あの…あのな、俺、ソルティーと仕事いやじゃないよ。どっちかって言うと、すごくうれしい。……でも、これがはじめてだったから、須臾とはなれるの。……子供みたいでごめんなさい」
自分の言った事に恥ずかしがる恒河沙の頭を軽く叩き、そのまま優しく撫でる。
「子供だよ、恒河沙はまだ子供だ。十五だろ? だったらまだ子供でも構わないだろう」
「でも、俺、傭兵だから」
「そうだな、仕事で我が儘を言われると困るが、それ以外では構わないよ。だから、お腹が空いても我慢しなくて良いし、仕事以外の我が儘なら少しは聞いてやるよ」
恒河沙の髪をくしゃくしゃにしながら、完全に笑顔を取り戻した顔にほっとする。
「ソルティーって、いいやつ」
「俺もそう思う。つくづく自分が、人を雇う側に向いていないと実感するよ」
「そんなことない、ソルティーはいいやといぬしだ」
「お前に言われても嬉しくない」
「どーしてー」
「雇われる側だから。俺も俺みたいな奴に雇われればそう思うけどな」
「じゃっ、やっぱりソルティーはいいやつだ」
自己完結をして恒河沙は納得したが、本人は納得できない。
先刻まで泣いていたのに、今はもうそれを忘れたかの様に笑えるのが判らないが、自分がそれを見てほっとしているのがもっと理解できない。そして、先刻まで心に在った、解雇の文字すら消えようとしているのには、更に驚いていた。
その頃、泣いて戻ってくるかも知れない恒河沙を待つ須臾は、時間が経つに連れ笑みを濃くしていった。
「絶対、恒河沙のお願いを、ソルティーがはね除ける筈無いもんねぇ」
向かいの部屋の事を想像して須臾は独り言を言う。
今までで充分ソルティーが恒河沙に甘いのは知り尽くしていた。だからこそ恒河沙を不安にさせる事を言い、解雇の言葉を連呼した。
擣巓と敦孔伐と奔霞の話と、幕巌がソルティーを交わした約束を考えれば、彼が当分自分達を解雇出来ないのは予想が付いていた。
それを知っていて恒河沙を不安にさせたのかは、自分の仕事に差し障りが在っては困るし、何より明日から自分が向かう場所より、此処に居た方が恒河沙が安全だからだ。
「残る心配は……ソルティーの悪癖が恒河沙に向かないことだけだね。まっ、大丈夫でしょう」
ソルティーの恒河沙に対する甘さは、単に子供への甘さと変わらない。それに彼が以前言った言葉を忘れる筈もないし、裏切るとも思えない。
取り敢えず声に出した物の、須臾も男が男にとは考えていない。男は女にしか欲情しない生き物だと、須臾はそう信じているのだ。
episode.5 fin
作品名:刻の流狼第一部 紫翠大陸編 作家名:へぐい